【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

尼子晴久が籠城戦の末、富田城を死守した「月山富田城の戦い」

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島根県能義郡広瀬町
●1543年2月12日~5月7日
大内義隆(4万)VS尼子晴久(1万5千)

《合戦までの経緯》
尼子晴久は、天文10年(1541年)に、毛利氏の吉田郡山城を攻めましたが、大内軍の援軍を受けた毛利軍によって撃退されてしまいました。

この尼子氏の遠征失敗によって、安芸及び備後の国人たちは、尼子氏を見限って大内氏の陣営にすり寄っていくことになりました。

さらに、安芸や備後、出雲、石見の主要な国人たちは、大内氏へ尼子氏の討伐を願い出たため、大内氏陣営内で陶隆房などの武断派と相良武任、冷泉隆豊ら文治派によって意見が分かれたものの、最終的に大内義隆は出雲への出兵を決断しました。

《合戦の内容》
大内義隆は自らを総大将として、1542年(天文11年)1月、陶隆房や杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らの兵1万5千人を率いて山口を出発後、安芸や備後の兵と合流し、3月に石見に入りさらに石見兵と合流して総数4万近くの軍勢に膨れ上がりました。

まずは出雲・石見・備後の国境に位置し、1000名で守る尼子氏の戦略上の拠点の瀬戸山城を6月7日から攻めはじめましたが、結局赤穴軍の激しい抵抗により7月27日まで掛かってしまいました。

その後、明くる1543年1月に、穴道畦地山で軍議を開き、その際元就は慎重論を展開しましたが聞き入れられず、さらに大内軍は月山富田城を望む京羅木山に本陣を移して、2月12日に攻防戦が開始されました。

当初は糧道を断ってしまえば1、2ケ月で攻略できるという楽観論が大勢を占めていましたが、2ケ月経っても総攻撃を仕掛ける機会をつかめないまま、逆に大内軍の糧道が尼子軍のゲリラ戦術を受けて兵站の補給に苦しみました。

こうなってくると合戦の直前に尼子から大内へ鞍替えしてきた土豪たちは動揺し、4月末には三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などが尼子方の武将著示し合せ尼子軍を攻撃すると見せかけて富田城内に入場してしまいました。

この寝返りによって大内軍は大いに動揺し、結果参陣中の武将たちの意見が分かれることになり、最終的にこの遠征は失敗に終わりました。

その大内軍は、5月7日に撤退を開始し、総大将の義隆と嗣子の晴持は帰路を変えて周防までの退却を図りました。

義隆は、陸路石見路を通って5月25日に山口に無事たどり着きましたが、海路をとった晴持は、我先に船に乗り込もうとする敗残兵のために船が転覆し、溺死してしまいました。

そしてこの撤退に際して、毛利軍には殿が命じられており、尼子軍の追撃や土一揆の待ち伏せなどもあって、かなりの損害を受けましたが、九死に一生を得て元就は吉田郡山城への撤退に成功しました。

《合戦の結果》
大内氏によるこの遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及びましたが、結果的には大内氏の敗戦におわり、さらには養子の晴持をも失ってしまった義隆は、これ以後政治に対する意欲を失い大内氏滅亡の一因となりました。

逆に尼子氏はこの勝利によって息を吹き返し、石見に進出して石見銀山を奪い、伯耆因幡・備後に対しても勢力を伸ばして、大内氏の滅ぼされた後には中国地方8ケ国の守護になりました。

その後尼子氏は毛利氏と石見国を巡り激しい争奪戦を繰り広げることになりました。