【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

死ぬまで天下人・秀吉を嫌った毛利両川の猛将「吉川元春」

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●享禄3年(1530年)~天正14年(1586年)11月15日
●毛利の両川、日野山城主

吉川元春は享禄3年(1530年)、安芸の毛利元就の次男として生まれ、天文9年(1540年)には出雲の尼子晴久吉田郡山城へ侵攻してきた際には、父の反対を押し切って出陣し、元服前の身ながら見事に初陣を飾りました。

天文16年(1547年)に熊谷信直の娘・新庄局と結婚した元春は、同年7月に母方の従兄である吉川興経の養子となり、元就が天文19年(1550年)に興経を強制的に隠居させて元春に吉川家の家督を継がせると、元就は熊谷信直らに命じて興経とその子・千法師を殺害し、吉川家の乗っ取りを果たしました。

また居城をより要害の地である日野山に移した元春は、それ以後弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、主に山陰地方の政治・軍事を担当し、毛利家を支えていくことになりました。

弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいても、元春は毛利軍の先鋒として陶晴賢率いる大内軍と戦いこれを撃滅しています。

その後の永禄8年(1565年)には山陰地方の雄である尼子氏の本拠・月山富田城に対して二度目の戦いを挑んだ際、元春は主力としてこの戦に参戦し、永禄9年(1566年)には尼子氏を降伏させることに成功しました。

この戦いで武功を挙げた元春は以降、山陰地方から四国や九州にまで活躍の場を広げていきましたが、そんな中尼子勝久を担いだ山中鹿介が率いる尼子氏再興軍が永禄12年(1569年)に出雲侵攻を目論みましたが元春はこれを撃退しています。

元亀2年(1571年)に父・元就が死去すると、元春は弟の隆景と共に毛利家当主である甥・輝元を補佐して毛利家の運営している中、尼子氏の残党が信長を頼って再び活動を開始し、また天正4年(1576年)には室町幕府の最後の将軍となる足利義昭が、信長に追放されて毛利氏を頼るに備後の鞆へ下向してくるなどにより、毛利氏と織田氏との対立が決定的となりました。

そして天正5年(1577年)からは信長の命により羽柴秀吉が軍勢を率いて播磨国に侵攻してきましたが、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中鹿介ら尼子氏の残党が信長の支援のもとで籠城している上月城を攻めて尼子氏再興軍を完全に滅ぼしました。

しかし毛利軍の優位もここまでで、天正8年(1580年)には織田を寝返って毛利氏についた別所氏の三木城が落城し、また備前宇喜多直家伯耆・南条元続の織田氏への寝返り、さらに天正9年(1581年)には元春の重臣・吉川経家が籠もる因幡鳥取城が落城するなど、毛利氏は徐々に劣勢に追い込まれていきました。

さらにその後、天正10年(1582年)には清水宗治が籠る高松城が秀吉によって攻められたため、元春は輝元や隆景と共に救援に向かったものの、秀吉の水攻めのため戦線は膠着状態になりました。

そんな中、信長が明智光秀の謀反により本能寺で横死すると、秀吉はその情報を毛利氏へは隠しつつ、毛利氏と講和を結び、高松城清水宗治には腹を切らせて、京へと戻っていきました。

講和後、秀吉に騙されたことを知った元春は、秀吉の追撃を主張しましたが、隆景からの反対もあり思いとどまらざるを得ませんでした。

そして秀吉が天下人になってからも、秀吉に従うのを嫌い、当主の座を長男の元長に譲って隠居しました。

しかし天正14年(1586年)、秀吉からの強い要望を受けた隆景や輝元からの説得によって隠居の身でありながら元春は九州平定に従軍しましたが、その頃すでに身体を病に蝕まれていたため出征先の豊前小倉城で57歳の生涯を終えています。