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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

毛利氏に忠誠をつらぬき高松城に散った備中侍「清水宗治」

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●天文6年(1537年)~天正10年(1582年6月23日)6月4日
●備中高松城

清水宗治は天文6年(1537年)、備中の大名三村氏の家臣である清水宗則の次男として生まれました。

宗治の主君である三村氏は、中国地方に大きな勢力を保有する毛利氏と同盟を結んで、父の仇である宇喜多直家と戦っていましたが、かなりの苦戦を強いられていました。

その状況を見ていた毛利氏は三村氏を見限り、宇喜多氏と同盟を結ぶことになり、最終的に三村氏は毛利氏によって滅ぼされてしまいました。

主家の三村氏が毛利氏と備中一円を舞台として戦いを繰り広げた、天正の備中兵乱の中、宗治は自家の生き残りのために毛利氏に寝返ることに決めました。

三村氏の重臣・石川久高の娘を妻にしていながらも毛利氏へ寝返った宗治でしたが、三村家の中で寝返ったのは宗治だけでなく、三村親成などの三村氏一門の人間でさえ毛利氏に寝返るような状況でした。

また三村氏が滅んだ際、高松城主であった義父・石川久高も死去しため、宗治が娘婿であるということを理由として高松城主の地位を手に入れたといわれています。

毛利氏の家臣となった宗治は、小早川隆景の配下となり、毛利氏の備中攻略に従って、活躍をし、また宗治自身の忠義真の厚さも手伝って、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深い信頼を得ていきました。

その後天正6年(1578年)織田信長の命により、家臣の羽柴秀吉が中国攻めのため、軍勢を播磨へ進めてくると、宗治は毛利氏による播磨・上月城攻めに従軍し、秀吉の軍と干戈を交えました。

そして秀吉の軍勢が着々と毛利氏の領土を侵食していく中、宗治は秀吉から領土の加増を見返りとして毛利氏からの寝返りの誘いがありましたが、宗治は頑としてその誘いを断り毛利家に忠義を誓いました。

しかし天正10年(1582年)には、ついに宗治の居城・高松城が秀吉の大軍によって包囲され、さらに黒田官兵衛の献策による水攻めによって高松城は窮地に立たされてしまいました。

毛利家当主・毛利輝元や隆景らによる援軍が到着するも、秀吉の軍勢によって十重二十重に包囲された高松城には近づくことは出来ず、また秀吉との和平交渉も上手くまとまりませんでした。

というのも宗治は毛利家から忠義の家臣として厚い信頼を受けており、もし信長が高松城へ秀吉の援軍として現れた場合、毛利家はこの戦いに負けて滅びる可能性があるものの、毛利家首脳部としては、毛利家の広大な領土を大幅に割譲したとしても忠義の士である宗治を見捨てることは出来ないとして宗治の切腹という条件に対して断固拒否していたからでした。

そんな高松城を巡る攻防の最中の6月2日、京において信長が家臣である明智光秀によって攻め殺されるという本能寺の変が起こりました。

その報をいち早く受け取った秀吉は、急ぎ上方へ戻って、主を討った光秀に対して弔い合戦を挑むため、毛利氏と急いで和睦を結ぶ必要に迫られました。

和睦を急ぐ秀吉は、毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊に対して、改めて宗治の切腹を条件に城兵を助命するとした講和を呼びかけました。

恵瓊はこの条件を直接宗治に伝え、自身の命ひとつで城兵が救えるならばと、信長の死を知らぬまま、その2日後に兄・月清入道及び弟・難波伝兵衛、さらには援将であった末近信賀らとともに湖に浮かぶ小舟において切腹し46歳の生涯を終えました。

尚、秀吉は宗治が切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた作法に感動し、後に隆景に会った際に「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したといわれています。