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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

尼子家の再興に命を懸けて毛利氏と戦い続けた「山中鹿助」

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●天文14年(1545年)8月15日~天正6年(1578年)7月17日
●出雲・尼子氏家臣、尼子十勇士

山中鹿介は天文14年(1545年)8月15日、出雲・富田庄に生まれたとされています。もともと山中家は尼子氏の家老でしたが、父・満幸が早世していたため、母一人の手で育てられ、貧しい生活を送っていました。

そんな中、鹿介は10歳の頃から弓馬や軍法を熱心に学び、13歳で敵の首を捕って手柄を立てると、16歳では伯耆尾高城攻めに従軍し、因幡伯耆において知る人ぞ知る豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取っています。

その後の永禄5年(1562年)毛利氏が尼子氏を滅ぼすため出雲へ兵を進め、元就に率いられて出雲へ攻め入った毛利軍は、尼子方の有力国衆らを次々と攻略しながら、同年12月には荒隈へ本陣を構えて尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格的に開始しました。

毛利軍は永禄6年(1563年)8月13日、宍道湖の北岸に位置し、月山富田城の補給路を確保するための重要な拠点である白鹿城への攻撃を開始すると、尼子軍は白鹿城を救援するべく援軍を送りましたが、その戦いで尼子軍は敗れ、月山富田城へ撤退しました。

しかしその撤退の中、鹿介は兵約200を率いて殿を担当し、追撃してくる吉川元春小早川隆景の軍を七度にわたって撃退する活躍をみせています。

その後の永禄7年(1564年)には、毛利方の杉原盛重と美保関で、また永禄8年(1565年5月)4月17日の毛利軍による月山富田城への総攻撃の際には塩谷口で吉川元春らの軍と戦闘を繰り広げ、さらに同年9月には毛利方の品川将員を一騎討ちで討ち取ると、月山富田城攻めのため白潟に滞在していた毛利方・小河内幸綱の軍を夜討ちによって多数討ち取っています。

そんな鹿介の活躍の甲斐なく、月山富田城の尼子義久は毛利軍に降伏を申し出て、戦国大名尼子氏は一時的に滅びることになりました。

鹿介は連行された主君・義久ら尼子3兄弟への随従は許されず、出雲大社で主君と別れた後、尼子家の再興に力を注いでいくことになりました。

尼子氏滅亡後、牢人となった鹿介は永禄11年(1568年)、立原久綱らとともに、京の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ、各地に散らばる尼子家旧臣らを集めて密かに尼子家再興の機会をうかがい、毛利氏を相手に2度の再興をかけた戦いを挑みましたが残念ながらも失敗に終わりました。

鹿介は、そんな状況に屈することなく、織田信長を頼って京へ上り、無事に信長と面会した結果、信長に気に入られて駿馬を賜わったうえ、織田軍の下で尼子家再興を目指すことになりました。

そして天正5年(1577年)10月、信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ兵を進めると、鹿介ら尼子再興軍も秀吉軍に従軍し、12月秀吉が播磨西部の上月城の攻略に成功すると、鹿介は主君・勝久と共にその城に入りました。

この城を拠点として尼子家の再興に乗り出しましたが、天正6年(1578年)2月に三木城の別所長治が毛利氏に寝返ると、好機到来とばかりに吉川元春小早川隆景らが3万以上の兵を率いて播磨に侵入し、尼子軍が籠もる上月城を包囲しました。

上月城が毛利軍に包囲されたとの知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと1万の軍をもって上月城の救援に向かいましたが、信長より三木城攻撃を優先するよう命じられたため、断腸の思いで陣を引き払って撤退、そのため上月城は孤立し、7月5日ついに尼子軍は毛利軍に降伏することとなりました。

捕えられた主・勝久と弟・助四郎は切腹、鹿介と立原久綱は生け捕られて毛利輝元の下へ連行される途中、備中国合の渡で謀殺されました