【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

信長と秀吉の未来を予言した毛利家の外交僧「安国寺恵瓊」

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●天文8年(1539年)~慶長5年( 1600年)10月1日
●毛利家の外交僧であり6万石の大名

安国寺恵瓊は、天文8年(1539年)甲斐の武田氏と同族である安芸の守護・武田氏の一族・武田信重の子として生まれました。

しかし天文10年(1541年)、毛利氏によって武田氏が滅ぼされると、家臣に連れられて脱出し、東福寺末寺である安芸の安国寺に逃げ込んで出家しました。

その後、京の東福寺に入り、竺雲恵心に学んで禅僧になると、師である恵心が以前から親交のあった毛利隆元の外交僧になったため、弟子の恵瓊もこれを手伝うこととなり、やがて恵瓊も外交僧として毛利家に仕えることになりました。

この間、恵瓊は天正2年(1574年)安芸安国寺の住持となり、後には東福寺、さらには南禅寺の住持になって、中央禅林最高の位にもついています。

天正元年(1573年)、恵瓊は外交僧として京へ出ました。その時期、足利義昭織田信長によって京都を追放されましたが、本願寺顕如の仲介もあって、三好義継の居城・若江城へ移り、さらに11月5日に堺へ移ると、そこへ信長の使者として羽柴秀吉と朝山日乗が訪れ義昭に京へ戻ることを要請しましたが、その会談に毛利氏側の使者として恵瓊も参加しています。

そんな中で恵瓊は信長や秀吉を評して、「信長の天下は3~5年は続き、来年あたり公家になるかもしれません。しかしその後は転げ落ちるでしょう。秀吉という男はなかなかの男です。」という有名な言葉を残しています。

結局、義昭は信長の申し出を断り、毛利氏を頼ってきたため、毛利氏は信長と戦うことになりますが、そんな難しい状況下で恵瓊は、毛利家の頭脳である小早川隆景に対して、何くれとなく助言を与えました。

天正10年(1582年)6月、毛利氏は信長に命じられて中国地方に兵を進め、備中高松城を囲んでいた秀吉と対陣していましたが、その最中に本能寺の変が起こり、秀吉から和平交渉を持ちかけられると、恵瓊は隆景と共に、反対派である吉川元春らを説得し、本来時間の掛かる和平交渉を早急に成立させました。

このことは、早く近畿へ馳せ戻り、逆臣・明智光秀との信長の仇討ち合戦を行いたかった秀吉に対して恩を売ることになり、恵瓊自身の出世に繋がっていきました。

その後、恵瓊は毛利家の外交僧の立場でありながら、秀吉のために働くようになり、四国征伐天正14年(1586年)の九州征伐での功を認められ、その結果秀吉から6万石を与えられ、僧でありながら豊臣家の大名という異例の抜擢を受けました。

恵瓊は、秀吉による国内統一の総仕上げである北条氏が籠もる小田原城攻めや、二度にわたる朝鮮出兵にも小早川隆景が率いる六番隊の一員として渡海し、実際の戦闘にも参加しています。

そして慶長5年(1600年)、以前から親交の深かった石田三成が、徳川家康に対して挙兵すると、恵瓊は吉川元春の三男で毛利氏の支柱のひとりである吉川広家の反対を押し切って毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功しました。

9月15日の関ヶ原本戦では、毛利秀元や広家とともに東軍・家康の後方にある南宮山に陣を敷きましたが、広家が密かに家康と通じ、毛利軍の参戦を阻止したため、毛利軍は一戦もすることなく西軍は敗北してしまいました。

恵瓊は敗走し、京都に身を隠していましたが捕縛され、大津の家康の陣所に送られた後、10月1日に西軍首脳のひとりとして、三成や小西行長と共に、市中引き回しのうえ、六条河原にて斬首、そして梟首され、63歳の生涯を終えました。