【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

謀略を駆使し中国地方の覇者にまで登り詰めた「毛利元就」

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●明応6年(1497年)3月14日~元亀2年(1571年)6月14日
●中国8ヶ国太守、長州藩始祖

毛利元就は明応6年(1497年)3月14日、安芸の毛利弘元の次男として生まれましたが、永正13年(1516年)に長兄・興元が急死したため、家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぎましたが、幸松丸がまだ幼少だったため、元就が後見役を務めることになりました。

しかし、その甥である幸松丸が大永3年(1523年)に9歳で死去すると、元就が志道広良ら重臣達に推されて家督を継ぐことになり、毛利氏の居城・吉田郡山城に入りました。

その頃の毛利家は尼子氏に属していましたが、元就の家督継承に不満を持つ一部の家臣が尼子経久の支援を受け、異母弟の元綱を推し立てて元就を追い落としに掛かりましたが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清し、家臣団の統率をはかりました。

この家督相続問題によって元就は大永5年(1525年)尼子氏と手を切り、大内義興に従うことに決めた後、元就は大内氏の支援を受けて尼子方の国人衆を攻めました。

その後の天文9年(1540年)、尼子晴久が3万の軍勢を率いて安芸へ侵入し、元就が3千の兵で守る居城・吉田郡山城を囲みました。

しかし元就は、奇策を用いて尼子軍を苦しめ、優位に籠城戦を展開し、最後は友好関係を結んでいた宍戸氏や、大内義隆からの援軍によって尼子軍の撃退に成功、この勝利によって元就は天下に名をとどろかせるとともに、安芸の盟主的な存在となりました。

その後の天文14年(1545年)、最愛の妻・妙玖を亡くなったことに落胆した元就は、翌天文15年(1546年)に隠居を表明し、家督を嫡男・隆元に譲りました。

ただ元就は完全に隠居したわけではなく、実権はそのまま元就が握ったままであり、逆にここから元就の本当の活躍が始まりました。

まずは、天文16年(1547年)に妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送り込み、また一方では小早川家を隆景に継がせて小早川氏の水軍を手に入れることによって「毛利両川体制」を確立させて、安芸一国をほぼ掌中に収めました。

さらには天文19年(1550年)7月13日、家中で専横を極めていた井上元兼とその一族を誅殺して家臣団統率の強化を図りました。

そして天文20年(1551年)、陶晴賢が主君である大内義隆に対して謀反を起こし、義隆を殺害すると、元就は晴賢の味方を装ってこの機会に勢力を広げていきました。

その後、戦後処理でのもつれや、晴賢が毛利氏の勢力拡大に危機感を抱き始めたこともあって両者の溝は深まっていきました。

ただ、兵力に差がありすぎ、普通に戦ったのでは勝ち目がないと判断した元就は、得意の謀略を使って陶氏の弱体化を図ることに成功し、弘治元年(1555年)に厳島の戦いにおいて、陶軍2万の兵を奇襲によって破り、大内氏の領地を獲得して一躍大国の主に成り上がりました。

そんな中で、元就は3人の息子に対して「1本の矢は簡単に折れても、3本が束になれば折れることはない」という言葉を残したといわれています。

その後、宿敵・尼子氏の居城・月山富田城を攻めていた永禄6年(1563年)に、当主である嫡男・隆元が不慮の死を遂げてしまいました。

元就は、悲しみにめげず、隆元の跡を継いだ嫡孫・輝元を補佐し、永禄9年(1566年)11月、ついに尼子氏を滅ぼして中国地方8ヶ国を支配する大名となりました。

1560年代のはじめから度々体調を崩していた元就は、元亀2年(1571年)6月14日、居城である吉田郡山城において次男・元春と三男・隆景に輝元のことを託して、75歳の生涯を終えました。