【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉に気に入られ豊臣家のために戦った武将「宇喜多秀家」

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●元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)11月20日
●宇喜多氏最後の当主、備前岡山城

宇喜多秀家は、元亀3年(1572年)備前の浦上氏の家臣・宇喜多直家の次男として岡山城で生まれました。

その頃の直家は、主である浦上氏と戦っており、その浦上氏が織田家を頼っていたという事情もあって、直家は毛利輝元と手を組んでいました。

天正5年(1577年)に直家は浦上氏を滅ぼしますが、織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国地方に攻め寄せてくると、直家は毛利氏と手を切り、織田方へ寝返りました。

天正9年(1581年)に父・直家が病死した際、秀家はまだ幼かったが、秀吉の計らいによって天正10年(1582年)織田信長によって家督相続を認められ、その後叔父の宇喜多忠家が代わりに宇喜多軍を率いて、秀吉の中国遠征軍と共に備中高松城攻めに従軍しました。

そんな中、本能寺の変によって信長が死去すると、秀吉と毛利氏の間には和平が結ばれ、その結果秀家は備前を中心とした3ヶ国に広がる領地をもつ大大名となりました。

その後、元服した秀家は秀吉から可愛がられて猶子となり、天正14年(1586年)秀吉の養女となった、前田利家の娘・豪姫を正室に迎え、外様でありながらも、秀吉の一門衆のように扱いを受けるようになりました。

そんな秀家ですが、四国攻めでは讃岐へ上陸後、阿波での戦闘に従事し、また天正14年(1586年)の九州征伐では日向にて戦闘行動を行い、さらに天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加するなど、秀吉の天下統一のために尽力しました。

そして文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては遠征軍の大将として渡海し、翌文禄2年(1593年)1月の碧蹄館の戦いでは小早川隆景らの軍勢と共に明軍を打ち破るなどの武功を挙げた結果、文禄3年(1594年)には従三位中納言に叙せられ、さらに慶長3年(1598年)には豊臣政権の五大老の一人に選ばれました。

秀吉が死去した後の慶長4年(1599年)、秀家と主だった重臣たちの間で対立が起こり、徳川家康によって裁断された結果、戸川や岡ら直家以来の優秀な家臣たちが宇喜多家を去ってしまうことになり、これによって宇喜多家は軍事的及び政治的に衰退すことになりました。

翌慶長5年(1600年)には家康が会津征伐のために出兵している間隙を縫って、石田三成毛利輝元を西軍の盟主に担ぎ上げ、打倒家康を掲げて挙兵すると、秀家も西軍の副将として参戦することになりました。

しかし、関ヶ原本戦では東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げましたが、多くの優秀な家臣が抜けた宇喜多軍は戦いにおいて苦戦を強いられました。

そして西軍に属していた同じ豊臣一門である小早川秀秋が裏切って西軍の大谷隊に襲い掛かると、西軍は総崩れとなり宇喜多隊は壊滅してしまいました。

関ヶ原の戦い後、秀家は何とか同じ西軍である薩摩の島津家のもとへ落ち延びて行きましたが、島津氏が秀家を匿っているという噂が広まったため、秀家は慶長8年(1603年)島津忠恒の手により家康のもとへ身柄を引き渡されました。

秀家は島津忠恒及び縁戚の前田利長からの懇願によって死罪を免れ、駿河久能山へ幽閉され、さらに慶長11年(1606年)4月に八丈島へ配流となりました。

その後、秀家は長生きし、江戸幕府4代将軍・徳川家綱の治世である明暦元年(1655年)11月20日に84歳の生涯を終えました。

このように戦国大名としての宇喜多家は滅びましたが、秀家の長男及び次男の子孫が八丈島で宇喜多家の血脈を伝えており、後に子孫が八丈島で分家を3家興しています。