【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

一代で尼子氏を山陰地方の覇者になさしめた「尼子経久」

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●長禄2年(1458年)11月20日~天文10年(1541年)11月13日
●月山富田城主

尼子経久は、長禄2年(1458年)11月20日に京極氏の出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれ、文明6年(1474年)には京都に住んでいる主君であり、かつ出雲・飛騨・隠岐・近江守護でもある京極政経のもとへ送られました。

京都での生活は5年を数えましたが、その間に元服して名を京極政経偏諱を賜って経久と名乗るようになり、文明10年(1478年)には父・清定の跡を継いでいます。

家督を譲られた後は、月山富田城を本拠地とし、京極氏から出雲を奪うべく活動を開始、国人衆との結びつきを強めるかたわら、寺や神社の領地を強奪したり、美保関という船の関所の利権を自身で独占するなどして、権力の基盤を固めていきました。

このように徐々に力を蓄えていく経久の行動に対して怒った政経は、文明16年(1484年)に出雲の国人衆に命じて居城・月山富田城を包囲させたうえ、経久を城から追放し、守護代職を解きました。

しかしながら経久は、2年後の文明12年(1486年)の正月元旦に少数の兵を率いて月山富田城を急襲し、経久に代わって城主となっていた塩谷掃部介を討ち果たして、かつての居城を奪還しました。

それ以降、経久は過去自らが行ってきた政策を一変し、人々が進行する寺社仏閣を大切に扱うなど、出雲の人心を掌握に
努力するようになりました。

また経久は、近江におけるお家騒動に敗れて、出雲に下向してきた主・政経との関係を修復したものの、出雲内では経久に対する抵抗勢力の動きはまだまだ続いており、その後三沢氏などの国人衆を従えることによって、出雲国内の完全掌握を果たしました。

そして、永正8年(1511年)に中国地方の大々名・大内義興が上洛すると、そのすきに近隣諸国への勢力拡大をはかり、永正17年(1520年)には出雲西部の支配を確立し、さらに翌大永元年(1521年)以降は石見や安芸へも触手を伸ばしました。

さらに大永3年(1523年)には安芸国人の毛利氏に、安芸における大内氏の拠点である鏡山城を攻めさせ、これを落城させると、経久は永正15年(1518年)弟・久幸に伯耆の南条氏を攻めさせる一方、叛旗を翻した桜井氏を攻めさせるべく嫡男・政久を出動させましたが、その戦いのさなかに政久が矢に当たって戦死してしまいました。

その後も各地で戦いを続け、特に大内氏とは一進一退の攻防を繰り広げていましたが、享禄3年(1530年)、経久の三男・興久が、領地の不満から反乱を起こすという事態が起こりました。

しかしこの反乱は天文3年(1534年)には鎮圧され、興久は自害して果てています。そんなこともあり、経久は天文6年(1537年)、家督を嫡孫の晴久に譲ることとし、自らこの晴久を後見することを決めました。

家督を継いだ晴久は、一時結んでいた大内氏との和睦が決裂したことにより、天文9年(1540年)経久の反対を押し切って、当時大内氏の勢力下にあった毛利氏の討伐に出陣していきました。

大勢としては尼子氏が有利で、晴久率いる尼子勢は諸国からの兵も加えると約3万に膨らんでおり、この大軍をもって毛利氏の居城である吉田郡山城を包囲しました。

しかし晴久は毛利元就や陶隆房が率いている大内氏からの援軍約2万との激戦の末に大敗を喫してしまい、尼子氏は安芸における勢力基盤を完全に失ってしまいました。

その後、一時は11ケ国の太守と呼ばれるまでに勢力を大きくした経久でしたが、天文10年(1541年)11月13日、月山富田城において84歳の生涯に幕を閉じました