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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

我が国において一番最初に登場したキリシタン大名「大村純忠」

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●天文2年(1533年)~天正15年(1587年)5月18日
●肥後三城城主

大村純忠は天文2年(1533年)に有馬晴純の次男として生まれ、天文7年(1538年)には母方の大村純前の養嗣子となって、天文19年(1550年)に家督を継いでいます。

しかしながら、純前には実子・又八郎(のちの後藤貴明)がいましたが、この純忠と純忠の養子縁組のために貴明は、武雄に本拠を置いていた後藤氏のもとへ養子に出されました。

そのため貴明は、当然のことながら純忠に恨みを抱いており、逆に純忠も貴明を追い出して家督を継いだという負い目を感じながら生きていくことを余儀なくされ、さらには肥前龍造寺隆信による圧力の中で苦しんだ純忠はキリスト教に救いを求めていくことになりました。

そんな中、松浦氏の領土である平戸において、永禄4年(1561年)にポルトガル人に対する殺傷事件が起きました。

安全に貿易活動を行うためポルトガル人が新しい港を探し始めているいう情報を得た純忠は、永禄5年(1562年)自領にある横瀬浦(現在の西海市)の提供をポルトガル人へ申し出ました。

さらにはポルトガル人に対して影響力を持っているイエズス会の宣教師に対し住居の提供などを行うことによって、純忠の目論見は見事に成功し、横瀬浦は賑わいを見せることになりました。

純忠は、永禄6年(1563年)宣教師からキリスト教に関しての教学を学んだあと、家臣とともにキリスト教の洗礼を受け、自国の領民に対してもキリスト教の信仰を奨励したことによって、大村領におけるキリスト者の信者は最大6万人を越え、これは日本全国におけるキリス教信者の約半数に当たるほどになりました。

一般に純忠の入信は純粋な信仰心ではないといわれていますが、実際は彼自身熱心なキリスト教徒であり、横瀬浦を開港した際には貿易を目的とする商人への課税を10年間免除、また長崎の地に仏教徒が居住することを禁止するなどの施策を打ち出しています。

そのうえ純忠は領内の寺社を破壊たり、僧侶及び神官の殺害、そしてキリスト教へ改宗しない領民を住んでいる土地から追放するなどを行ったことにより、家臣や領民からの反発が沸き上がりました。

そんな中、純忠に恨みを持っていた貴明が、不満を高めていた大村家の家臣団と連携して反乱を起こし、横瀬浦を焼き払いましたが、純忠は元亀元年(1570年)にポルトガル人のために横瀬浦に代えて長崎を提供しました。

その後松浦氏の援軍を得た貴明の1千5百の軍勢によって元亀3年(1572年)に居城・三城城を攻められましたが、何とか援軍が来るまで踏ん張り、これを撃退しています。

さらに天正6年(1578年)には、龍造寺軍らによって長崎港が攻撃されましたが、ポルトガル人の支援を受けることにとって、純忠は撃退に成功し、この援軍への御礼として天正8年(1580年)イエズス会長崎港周辺の土地を教会領として寄進し、天正10年(1582年)には甥の千々石ミゲルを名代として天正遣欧少年使節を派遣しました。

しかし純忠を取り巻く環境は厳しく、龍造寺氏からの圧力によって従属する状況にあった天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでも龍造寺方として参戦するものの、龍造寺隆信が戦死した後、島津氏から追撃を受けることなく開放されました。

天正15年(1587年)に始まった豊臣秀吉の九州征伐では、純忠は秀吉に従うことによって本領を安堵されたものの、純忠は病気のため嫡子・喜前が代理で出陣しています。

そして純忠は幸いにも秀吉によるバテレン追放令が出る前の、1587年(天正15年)6月23日に生涯を終えました。