【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

雅に憧れ、奢侈に溺れて国を傾けてしまった日向の王「伊東義祐」

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●永正9年(1512年)~天正13年(1585年)8月5日
●日向砂土原城主

伊東義祐は永正9年(1512年)に日向で生まれました。天文2年(1533年)に兄であり、かつ日向伊東氏9代当主の祐充が死去すると、叔父である伊東祐武が反乱を起こして、伊東家を取り仕切っていた義祐の外祖父・福永祐炳を自害に追い込んだうえ、都於郡城を占拠しました。

そのため義祐は日向を離れて京へ上洛しようとしましたが、反祐武勢力によって押しとどめられ、財部において祐武方と対峙し、家中を二つに分けた御家騒動の末、知将である荒武三省の活躍によって祐武を自害に追い込み、義祐は都於郡城の奪回に成功しました。

このお家騒動が落ち着くと、伊東氏の家督を弟・祐吉が継ぐことになり、義祐は出家に追い込まれましたが、祐吉が3年後に病死すると、義祐は還俗し天文5年(1536年)7月10日に伊東家11代を相続し、佐土原城へ入りました。

義祐は、伊東家を継いだ後、飫肥を領していた島津豊州家と日向の南部の領有をめぐって一進一退の攻防を繰り返し、永禄3年(1560年)幕府による調停が行われたが、義祐はお構いなしに飫肥へ侵攻、そしてついに永禄11年(1568年)1月9日義祐自身が2万の軍勢を率いて島津忠親が守る飫肥城を攻撃し、五ヶ月間にわたる包囲の結果、永禄12年(1569年)には大隈の肝付氏と豊州家の領土を分け合う形で飫肥を自領に組み込みました。

このようにして島津氏の勢力を大きく凌駕した義祐は、日向国内に48の支城を構え、伊東氏の最盛期を築き上げる一方徐々に奢侈と京風文化に溺れていき、本拠・佐土原を「九州の小京都」と呼ばれるほどに発展させていきました。

そして永禄元年(1558年)には、姻戚である北原氏の家督継承問題に介入し、反対派を粛清したうえ、娘の麻生を北原庶流の馬関田右衛門佐と婚礼を挙げさせて北原氏の領地を奪い取りました。

しかしこれは北原氏の旧領回復に領力した島津貴久と相良義陽、北郷時久らによって永禄5年(1562年)に奪い返されました。

この反伊東勢力に対抗するべく、義祐は相良氏と同盟を結び、永禄6年(1563年)に両家で協力して永禄7年(1564年)には北原氏に従属する大河平氏を攻略するなどしたため、北原氏の旧領は真幸院の飯野地区を除いて再び伊東氏の領地になりました。

しかしながら、肥沃な穀倉地帯である真幸院は、日向の完全支配にとってはどうしても必要不可決であったため、その後も侵略を重ねるが、島津氏の反攻によってなかなか成果が上がりませんでした。

そして島津家当主・貴久が元亀3年(1572年)5月に死去したため、これを好機とみて相良氏と共に3千の兵で島津氏を攻めましたが、逆に島津義弘率いるわずか3百の兵に大敗、そのうえ伊東家の多くの武将が討ち死にしてしまうと、真幸院の攻略は頓挫してしまいました。

この大敗によって、義祐の勢力は次第に衰退し、恃みの伊東四十八城も櫛の歯を挽くように落城及び寝返りによって減ってくると、もはや義祐に残された選択肢は豊後の大友宗麟を頼る以外になくなりました。

本拠・佐土原を出て苦難の末に豊後へたどり着いた義祐は、大友宗麟に日向復帰のための援助の依頼したところ、宗麟は快諾し天正6年(1578年)に耳川において島津氏と激突しました。

しかし大友氏はあえなく島津氏に大敗を喫してしまい、大友氏に居づらくなった義祐は子の祐兵ら20余人と共に伊予の河野氏を頼って落ちてゆきました。

子の祐兵の仕官を見届けた義祐は、一人旅の途中で病を得、仕官した子/祐兵の堺の屋敷で73歳の生涯を閉じました。