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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

黒田家24騎のひとりであり大坂の陣でも活躍した「後藤又兵衛」

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●永禄3年(1560年)4月10日~慶長20年(1615年)5月6日
●黒田家家臣⇒大坂城五人衆

後藤又兵衛は永禄3年(1560年)、播磨の別所氏家臣・後藤新左衛門の次男として生まれ、別所氏が天正8年(1580年)織田信長によって滅ぼされると、又兵衛は父と共に小寺氏を頼りました。

その父もすぐに病死してしまったため、その後又兵衛は黒田官兵衛に育てられ、一時黒田家から離れたこともありましたが、後日帰参して官兵衛の子・長政に仕えるようになりました。

残っている資料に又兵衛の名前が現れるようになったのは、天正14年(1586年)に豊臣秀吉による九州征伐の頃からで、黒田家が豊前に領地を与えられた後、領地替えを巡っての城井氏との戦いにおいては、戦の途中で長政に退却を進言するも聞き入れられずに敗北を喫した、また天正15年(1587年)12月の長岩城攻めで瀕死の重傷を負った、などの記録が残っています。

さらに文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に関しても又兵衛はこれに従軍し、第二次晋州城攻防戦においては亀甲車で城壁を突き破り、他の部隊と一番乗りを競うなどの活躍をしています。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、又兵衛は東軍として、石田勢と激戦を繰り広げ、三成家臣で剛槍を使いこなす大橋掃部を一騎討ちの末に討ち取るなど武功を挙げ、戦後にはそれらの功績が認められて黒田家重臣の一人として1万6千石の大隈城主を任されるまでになりました。

しかし又兵衛は長政に対して苦言を呈したり、他国の人間との付き合いを禁止されるなどの事情から、長政との折り合いが徐々に悪くなり、官兵衛の死後2年が経った慶長11年(1606年)に又兵衛は一族揃って黒田家を出奔しました。

そんな又兵衛の武勇を惜しんで、豊前の細川忠興をはじめとする多くの大名から仕官の声が掛かりましたが、その都度長政が邪魔をしたため、それらの仕官の話は立ち消えになってしまいました。

慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、京で牢人生活を送っていた又兵衛のもとに大野治長からの秀頼へ味方するべく使いが寄越されたので、又兵衛は勇んで大坂城へ入城しました。

大坂城に入城した武将の中で、徳川家康から御宿政友と共に警戒されていた又兵衛は、天満の浦での閲兵式で一方軍の旗頭として指揮を任され、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称されました。

冬の陣が始まると、6千人の遊軍を任された又兵衛は、鴫野・今福方面において木村重成の部隊と協力して、上杉景勝並びに佐竹義宣の軍を撃退する働きを見せています。

また翌年5月の大坂夏の陣では、2千8百の兵を率い、大和路から迫ってくる敵兵を迎撃するため、6日の未明に道明寺方面に出陣しました。

又兵衛は寡兵ながらも抜け駆けをしてきた奥田忠次を討ち取るなどの活躍をしましたが、共同で戦う予定の後続部隊が霧の発生のために到着が遅れ、伊達政宗の家臣片倉重長率いる部隊を含む10倍以上の敵との激戦の末、乱戦の中で討死にしました。

そんな又兵衛ですが、今まで述べてきたように大坂夏の陣で討死したといわれていますが、大坂の陣を生き延びたという伝説が各地に残っています。

例えば、奈良県宇陀市では、又兵衛の屋敷跡と伝えられる場所に又兵衛桜と呼ばれる桜の木が残っており、又兵衛はその屋敷で隠遁生活を送った、という話や、また大分県中津市耶馬渓では、大坂の陣で戦死した又兵衛は影武者で、実は又兵衛が秀頼を伴って薩摩の島津へ落ち延びる途中、一行と別れた又兵衛がこの地で亡くなった際に作られたといわれる墓が残っています。