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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

島津16代当主、戦国最強の弟達と家臣団を率いた「島津義久」

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●天文2年(1533年)2月9日~慶長16年(1611年)1月21日
薩摩守護大名

天文2年(1533年)2月9日、薩摩の島津貴久の嫡男として生まれた島津義久は、幼いころは大人しい性格だったといわれています。

天文23年(1554年)に岩剣城攻めで初陣を果たした義久は、その後も薩摩の国衆との戦いに従軍し、永禄9年(1566年)には父の隠居によって家督を相続したのち、元亀元年(1570年)に東郷氏及び入来院氏を降伏させ、薩摩統一を成し遂げました。

島津氏は、この薩摩統一を進める一方、薩摩・大隅・日向・肥後が接する要衝の地である真幸院を巡って日向の伊東義祐とにらみ合いを続けており、元亀3年(1572年)5月に伊東義祐の重臣・伊東祐安が総大将となって約3千の軍勢で島津領への進軍を開始しました。

それを迎え撃ったのは、義久の次弟・義弘で、兵3百を率いて木崎原に向かい、地の利を活かして伊東勢を撃破、のちに寡兵を持って大軍を破ったこの伊崎原の戦いは、九州における桶狭間と呼ばれました。

また義久は、並行して大隅の統一も進めており、天正2年(1574年)に肝付氏と伊地知氏を帰属させることに成功し大隅の統一も果たしています。

その後、義久は日向の伊東氏の属城である高原城を天正4年(1576年)に攻略し、この落城を知った伊東方の国衆が雪崩を打つように伊東氏を見限ったため、江結果伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼って落ちていったことから、義久はついに島津氏の宿願であった三州統一を成し遂げました。

その反動として、天正6年(1578年)伊東義祐が頼っていった先である大友宗麟が、大軍を引き連れて日向へ進軍を開始し、島津方の義久の末弟・家久と山田有信が兵3千で籠もる高城を取り囲み、一進一退の攻防が開始されました。

同年11月に義久は約2万の軍勢で佐土原に到着し、大友軍への奇襲に成功させたのち、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣しました。

対する大友軍は、宗麟が後方に陣を敷いていて不在だったこともあり、団結力に欠け攻撃が無秩序になっていたので、義久は島津軍得意の戦法「釣り野伏せ」を使って川を渡って追撃してくる大友軍を壊滅状態に追い込むほどの勝ちを収めました。

さきの戦いによって大友氏が衰退すると、代わって肥前龍造寺隆信が勢力を拡大、その龍造寺氏からの圧力に耐えかねた有馬晴信が島津氏に援軍を要請してきました。

その要望に応えるため天正12年(1584年)、義久は家久に総大将を命じ、3千の兵を付けて島原へ繰り出させ、自身は肥後の水俣まで陣を進めました。

家久は有馬氏の兵と併せた約5千の兵力をもって沖田畷と呼ばれる湿地帯へ進出し、2万5千もの龍造寺軍に対して、龍造寺隆信をはじめとして、一門や重臣など約3千人を討ちとるという見事な勝利を収め、その後龍造寺氏を従属させています。

しかし天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が開始されると、義久は秀吉の大軍に抗するすべもなく、薩摩・泰平寺で秀吉の軍門に下ったものの、薩摩と大隅は安堵されました。

また朝鮮出兵の後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、京都にいた義弘が西軍に加担することになりました。

しかし、西軍が敗北を喫すると、義久は西軍への参加は義弘が単独で行ったものであり、義久には何も関係ないとして、家康との講和交渉を開始し、最終的に島津氏は改易を免れたうえ、本領も安堵されました。

その後、義久は慶長7年(1602年)に当主の座を島津忠恒に譲り渡して隠居し、慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて79歳の生涯を終えました。