【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

幕府に貿易の利益や自由を奪われたキリシタン大名「有馬晴信」

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●永禄10年(1567年)~慶長17年(1612年)5月6日
肥前日野江藩

有馬晴信は、永禄10年に肥前の大名・有馬義貞の次男として生まれ、元亀2年(1571年)に兄・義純が早世したため家督を継ぐことになりました。

晴信は家督を継いですぐの頃、キリシタンを迫害していましたが、その後宣教師と接する機会が多くなってくると、考えを改め天正8年(1580年)には自ら洗礼を受けて熱心なキリシタン大名となり、それ以後はキリスト教や宣教師をおおいに保護し、長崎の土地を教会として寄付するほどの熱心なキリシタンとなりました。

また天正10年(1582年)には、大友宗麟や叔父である大村純忠と共に、ローマへ天正遣欧少年使節をするなどキリスト教に対して深く傾倒し、その結果有馬氏の領地は九州におけるキリスト教の中心的な地域となり、晴信はあまりにキリスト教にのめり込んだ結果、領地内の神社や寺を破却するまでに至りました。

さらに晴信は、数万人のキリシタンを保護に尽力し、天正15年(1587年)に秀吉によって禁教令が出た後も自身はキリスト教の信仰を捨てませんでした。

その有馬氏を取り巻く環境について、龍造寺隆信が力をつけて勢力を拡大してくると、その隆信からの圧力に耐えきれず、晴信は隆信に従属するしかない状況に追い込まれました。

そんな中で、晴信は島津氏と手を組んで、天正12年(1584年)の沖田畷で隆信と戦い、地の利を活かした戦い方で、有馬・島津の連合軍は、見事に隆信を討ち取り、大勝利を得ました。

しかしその後、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐が始まると、晴信は島津氏と手を切って秀吉に従いましたが、貿易の中心地である長崎は秀吉によって取り上げられてしまいました。

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵においては、同じキリシタン大名である小西行長と共に一番隊の一員として出陣しました。

そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、小西行長からの西軍に味方するように誘われ、一時は在国のまま西軍に加盟しましたが、関ヶ原での西軍惨敗の報に接すると東軍へ寝返って、小西行長の本拠・宇土城を攻めることによって徳川家康から領土を安堵され、さらには長崎の地を戻してもらうことに成功しました。

さらにその後の慶長9年(1604年)、幕府が対外貿易の独占に動き出す中、晴信は東南アジアに船を送り出して貿易の拡大を図りましたが、幕府側では慶長14年(1609年)各藩に対し、大船の保有を禁止する施策を打ち出しました。

同じ年、晴信の朱印状を持った船の乗組員がマカオにおいて、現地市民との争いの末に乗組員及び家臣含めて48名の人間が殺されてしまうという事件が起きました。

この事件に対する報復として、家康に仇討ちの許可を求めた晴信は、ポルトガル船が長崎に入港するとその船の船長を捕らえるために、多数の軍船をもってポルトガル船を取り囲んだ結果、船長が船員を逃がしたうえ船を自沈させました。

このポルトガル船撃沈の功績による恩賞として、家康が有馬の旧領を返してくれるといった虚偽の情報を、本多正純の家臣である岡本大八から持ちかけられた晴信は、大八に対して口利き料として多額の賄賂を渡しました。

しかしこのことが家康にばれてしまい、家康は激怒したうえ大八を火あぶりの刑に処し、さらには晴信にも贈賄の罪として甲斐へ追放し、死罪を言い渡しました。

しかしキリシタンである晴信は自害が出来ずこれを拒否、その結果慶長17年(1612年)5月6日、妻の見守る中で家臣に首をはねさせて、自身の生涯を終えました。