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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

関ヶ原の戦いで演じた天下を左右する裏切りを決行「小早川秀秋」

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天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)10月18日
備前岡山藩

小早川秀秋は、天正10年(1582年)豊臣秀吉の妻・おねの兄である木下家定の五男として近江の長浜に生まれました。

秀秋は小さいころに義理の叔父である秀吉の養子となり、幼少より高台院から非常にかわいがられ、元服してのち木下秀俊と名乗るようになると、天正17年(1589年)には丹波亀山城10万石を与えられ、さらに文禄元年(1592年)従三位・権中納言兼左衛門督に叙任されました。

このように秀秋は男子のいない秀吉にとって、関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の後継ぎ候補と見られていましたが、文禄2年(1593年)に秀吉の側室である淀の方が秀頼を生むと秀吉の秀秋に対する愛情が薄れてしまい、秀秋の立場は急変してしまいました。

文禄3年(1594年)秀吉の命によって、黒田官兵衛の口利きで小早川隆景の養子に出されて小早川秀秋となり、そのおかげで小早川家では家格や待遇が上昇しました。

その後、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵文禄の役の際には名護屋城の留守を任されていましたが、慶長2年(1597年)に隆景が亡くなると、秀秋が跡を継いで筑前・名島城主となりました。

そして同年の朝鮮出兵慶長の役では渡海軍の大将を命じられましたが、ここで秀秋は大将であることを忘れて軽率な行動をとってしまったため、秀吉から帰国要請を受け、帰国後には筑前の領地を没収されそうになりました。

ところが、慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると、豊臣政権の運営は五大老による合議制となり、五大老のひとりである徳川家康の手助けもあって筑前の領地没収を免れ、このことによって秀秋は家康が自らの地位と領土を待ってくれた恩人となりました。

その後に行われた慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い石田三成が西軍を結成すると、秀秋は当初東軍に味方し伏見城へ入城しようとしましたが、伏見城を守っていた鳥居元忠に拒まれたしまったため、仕方なく西軍に加わって、逆に伏見城攻めに参加しました。

関ヶ原の本戦においては1万5千の兵を率いて参加した秀秋は、南西にある松尾山にすでに陣を敷いていた伊藤盛正を追い出してそこに自らの軍を布陣しました。

戦いが始まり、午前中の戦いでは西軍が有利に進めていましたが、その中で秀秋は松尾山に陣取ったまま傍観を決め込んでいました。

その秀秋に対して、西軍の三成は敵に攻めかかるよう、まあ東軍の家康は裏切って味方に付くよう使者を送っていましたが、それでも動かない秀秋に対して業を煮やした家康が秀秋の陣地に鉄砲を撃ちかけたため、秀秋はついに西軍を裏切って家康率いる東軍に味方することを決意し、西軍の大谷吉継の陣へ攻め掛かりました。

そんな秀秋勢の中で、一軍の大将を任されていた松野重元のみは、この裏切り行為に納得できず、無断で戦線を離脱しましたが、このことが主家を裏切らなかったと評価され、戦後は田中吉政に1万2千石で召し抱えられています。

この秀秋の裏切りによって、戦局は一気に東軍へ傾き、夕刻までに西軍は崩壊、東軍が勝利し、秀秋は三成の本拠であり佐和山城攻めにも従軍して、戦後には家康から備前・美作の2ケ国55万石を与えられました。

しかし秀秋は、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)21歳の若さで急死し、小早川家は後継ぎが不在だったため改易されています。

尚、秀秋の死因については関ヶ原での裏切りを苦にした狂乱死という噂が広まりましたが、実際のところは酒色に溺れたことによる内臓疾患が原因だといわれています。