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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

北肥前で勢力を持つ松浦党を指揮した平戸藩初代藩主「松浦鎮信」

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●天文18年(1549年)~慶長19年(1614年)5月26日
肥前平戸藩初代藩主。

松浦鎮信は、天文18年(1549年)肥前の大名・松浦隆信と杉隆景の娘である母との間に長男として生まれました。

そんな鎮信は、子供の頃から塚原幹勝に剣術を学び、また和歌も嗜むといったように文武両面に優れており、永禄11年(1568年)に父・隆信から家督を譲られた鎮信は大友宗麟から武具一式を賜って元服をしています。

鎮信は、領地や貿易の利権を巡って大村純忠と小競り合いを繰り返していたが、天正2年(1574年)、ついに純忠を屈服させ、純忠の娘を自身の息子・久信の妻とすることで和議をまとめました。

この時期は、肥前において龍造寺隆信の勢力が台頭していましたが、松浦氏は本拠の平戸でポルトガル船との海外貿易を行っており、鉄砲を入手しやすい状況にあったので、貿易によってそろえた鉄砲を有効に活用し、龍造寺氏とも互角に戦っていました。

しかし、やがて龍造寺氏の勢力に押され、従属を余儀なくされましたが、龍造寺隆信天正12年(1584年)沖田畷の戦いで討ち死にすると、鎮信はチャンスとばかりに再び独立を果たしました。

また鎮信には先見の明があり、中央で力を拡大していた豊臣秀吉に対して、早くから貢物の進呈などをすることによって誼を通じ、そのかいあって事前に九州征伐の事を知らされていました。

そして天正15年(1587年)、実際に秀吉が九州に上陸すると、父・隆信と共に従軍し、さらに父・隆信と子・久信の親子3代で秀吉に謁見し、敢えて加増は望まずに所領安堵のみで満足であると言上したことで秀吉に気に入られ、豊臣政権に上手く入り込みました。

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵の際、鎮信は息子の久信とともに、小西行長率いる第一陣として渡海し、平壌を巡る戦いでは、行長ら諸将と共に明の大軍と戦うなど、7年間に渡って活躍しました。

その後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは子の久信が石田三成の率いる西軍についたもの、本国に在国していた鎮信は、東軍に参加したことによって徳川家康から壱岐松浦郡計6万3千2百石の所領を安堵されています。

そうして鎮信は平戸藩の初代藩主となり、翌慶長6年(1601年)鎮信は家督を久信に譲りましたが、翌々年に久信が急死してしまったため、鎮信が後見し孫の隆信を後継ぎに据えました。

そんな中、平戸での貿易に関しては、父の時代にポルトガル船が長崎に入るようになり海外貿易の中心が長崎に移ってしまったため、鎮信は往年の賑わいを取り戻すことを願っていました。

そのために慶長10年(1605年)東南アジアのマラッカへ家康の親書を持って船を送りこみ、その結果慶長14年(1609年)にオランダ船が初めて平戸港に到着し、その後はオランダとの貿易を活発に行うことに成功しました。

さらに慶長18年(1613年)には、イギリス東インド会社の船がイギリス王の国書を持って平戸に来航したため、鎮信は家康による貿易許可の朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設、そうして平戸貿易の再興を果たしました。

しかしその後の幕府による鎖国政策によって、海外貿易の道が断たれてしまいましたが、松浦家は明治維新まで続き、維新後に松浦家当主は伯爵になっています。

その松浦家の初代藩主である鎮信は慶長19年(1614年)に66歳の生涯を閉じましたが、海外貿易をしていたにもかかわらず熱心な真言宗徒だったので、領内においてはキリシタンの排除も行なっていた鎮信は、自らで建立した最教寺に葬られました。