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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

龍造寺隆信の義弟、後の肥前藩の基礎を作り上げた「鍋島直茂」

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●天文7年(1538年)3月13日~元和4年(1618年)6月3日
肥前佐賀藩

鍋島直茂は、天文7年(1538年)肥前の龍造寺の武将である鍋島清房の次男として生まれ、天文10年(1541年)に、主君・龍造寺家兼の指示によって、千葉胤連の養子に出されました。

ただ、天文14年(1545年)に龍造寺家純らが少弐氏によって殺され、さらに家兼が逃亡するという事態によって、少弐氏と龍造寺氏の関係が悪化すると、直茂の養子縁組は解かれて実家に戻されました。

そして龍造寺氏の当主である家兼が死去すると、龍造寺氏は隆信が継ぐことになり、さらに隆信の母・慶誾尼が、直茂の父・清房の継室となったため、直茂は隆信の義兄弟となりました。

もともと、慶誾尼に才覚を認められていた直茂でしたが、隆信からも義兄弟になったこともあって大きな信頼を得ることになりました。

さらに龍造寺氏は直茂の働きもあって、永禄2年(1559年)に長年の敵である少弐氏を滅ぼすことに成功し、その後も直茂は、龍造寺氏による肥前統一のために尽力することになりました。

しかしながらその龍造寺氏の前には肥前を勢力範囲に持つ大友宗麟が立ちはだかり、元亀元年(1570年)には佐賀城が大友宗麟の6万の軍勢によって包囲されてしまいました。

直茂はこの危機を乗り切るために、今山にある大友軍の本陣に対して、大友軍の総攻撃の前夜に夜襲を掛けることを進言し、自らが夜襲隊を指揮して大友親貞を討ち取ると、直茂は名実ともに隆信の片腕という立場を固めていきました。

その後も、天正3年(1575年)には少弐氏の残党を壊滅に追い込み、また天正6年(1578年)には肥前南部の有馬氏や・大村氏らを服従させるなど、実戦においても常に先陣に立って働き、また政治の面でも筑後一国を任されるまでとなりました。

しかし、天正12年(1584年)に有馬氏並びに島津氏との沖田畷の戦いにおいて、隆信が討ち死にしてしまうと、直茂は這う這うの体で肥前に逃げ帰り、島津氏に対しては恭順の意を示す一方、あと継いだ隆信の子・政家を補佐し、龍造寺家の勢力の回復に努めました。

その後、天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州征伐が行われると、秀吉に対して早くから誼を通じていた直茂は、すぐにこれに従ったため、秀吉は龍造寺家の領地を安堵するとともに、後日政家の跡を子の高房が継いだものの、直茂のことを龍造寺氏の大名格として扱うことになりました。

また文禄元 年(1592年)の朝鮮出兵においては、直茂が龍造寺家臣団を率い、龍造寺家の重臣らからも頼りにされたこともあり、事実上の鍋島軍として、加藤清正が主将を務める日本軍二番隊として参加し、また文禄4年(1596年)には重臣たちが直茂の子・勝茂に対して忠誠を誓うまでになりました。

そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、子の勝茂を西軍に属さしめたものの、直茂自身は東軍勝利を予測していたため、あらかじめ尾張近郊の米などを買い占めて目録を家康に献上し、さらに関ヶ原の本戦が開始される前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させたうえ、自身は柳川城をはじめとする西軍の居城を攻めたことによって、徳川家康から肥前佐賀35万7千石を安堵されました。

その後、慶長12年(1607年)に高房が亡くなり、龍造寺の当主が絶えてしまうと、幕府は鍋島家が当主となって佐賀藩の藩主となるように命じました。

ただ、直茂は龍造寺家中に対して遠慮をし、自らが藩主の座に着くことはせずに隠居したうえ、子の勝茂を初代藩主としました。

その直茂は、元和4年(1618年)6月3日に81歳の生涯を終えています。