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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉からその忠義、またその剛勇は鎮西一 と称された「立花宗茂」

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●永禄10年(1567年)8月18日~寛永19年(1643年)11月25日
筑後柳河藩の初代藩主

立花宗茂は、永禄10年(1567年)8月18日、大友氏の重臣で豊後の高橋紹運の長男として生まれ、初陣ながらも秋月氏との戦いで武功を挙げました。

宗茂のこのような活躍に惚れこんだ立花道雪は、自らに男子がいなかったこともあり、天正9年(1581年)、宗茂を自身の娘である誾千代の婿養子として迎え入れたいと宗茂の父・紹運に希望しました。

しかし紹運は宗茂の類まれなる器量及び高橋家の嫡男であるという理由から最初は首を横に振っていましたが、道雪からの度々の要請を断り切れず、8月18日に宗茂を道雪の元へ送り出しました。

その後、天正13年(1585年)に道雪が病死したため、宗茂筑前立花山城の城主となり、父・紹運と共に筑前を守りました。

天正14年(1586年)、島津氏が5万の大軍で筑前国に侵攻し、紹運は岩屋城において徹底抗戦の末に自害し、弟・高橋直次が守る宝満城も降伏する中、宗茂は立花山城で粘り強い戦いを展開し、翌年豊臣秀吉が九州征伐に乗り込んでくるまで城を守り抜きました。

その後も秀吉に従って九州平定戦で活躍し、秀吉から西国一の武将と褒めたたえられ、その功によって筑後柳川13万2千石を与えられ、さらに大友氏から独立した直臣大名として取り立てられました。

また文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては、小早川隆景を主将とする6番隊に2千5百の兵を率いて参陣し、翌年の碧蹄館の戦いでは宗茂と高橋統増が先陣となって明の大軍を相手にこれを撃破し、武名をおおいに上げました。

さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、徳川家康から法外な恩賞を約束され東軍に付くように誘われたものの、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い放ち、重臣たちの反対を押し切って三成率いる西軍に加担しました。

そして伊勢方面の攻略後、毛利元康らと共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めている間に、関ヶ原の本戦で西軍が敗れてしまったことを聞き、一旦大坂城に入って毛利輝元大坂城で籠城し、徳川ともう一度戦う旨を進言しましたが聞き入れられず、失意の中で柳川城へ引き上げました。

帰国後、東軍である加藤清正鍋島直茂に攻められた宗茂は、降伏することを決意し、領地を召し上げられ、牢人の境涯へ落ちてしまいました。

その後、江戸に下っていた宗茂は慶長8年(1603年)に徳川家康に赦され、陸奥棚倉1万石の大名に返り咲き、また二度にわたる大阪の陣では二代将軍・徳川秀忠のもとに軍師参謀を兼ねた警固役として参陣し、大坂方の大野治房の軍勢の動きを的中させ、また秀忠軍の進退の指導を行いました。

さらに大坂方の総大将である豊臣秀頼が出陣しないことも予言し、実戦においては毛利勝永の軍勢を駆逐するなど、徳川方としておおいに活躍し、その功によって元和6年(1620年)、幕府より旧領であり筑後柳川10万9千2百石を与えられ、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易された武将の中で、唯一旧領に復帰を果たした大名となりました。

寛永14年(1637年)には島原の乱にも従軍し、総大将である松平信綱を輔佐している際、城兵の様子をみて黒田軍への夜襲攻撃を見破り、それが見事に的中したため、家臣たちは宗茂の観察眼の確かさにおどろきました。

その翌寛永15年(1638年)、自身に子供がいなかったため、家督を弟・直次の子である忠茂を養子として譲り渡したのち、宗茂は寛永19年(1642年)に江戸柳原の藩邸で齢76歳の生涯を終えました。