【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

立花宗茂の義父で、生涯のほとんどを戦場で過ごした「立花道雪」

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●永正10年(1513年)3月17日~天正13年(1585年)9月11日
筑前立花山城主

立花道雪は、永正10年(1513年)3月17日、豊後大野郡で、大友家の一族である鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれ、長兄が早世したため後継者として育てられました。

母を幼くして失い、父も病床にあったこともあって、継母により育てられた道雪の初陣は元服前の14歳の時で、病弱な父に代わって志願し、2千の兵と武に秀でた老臣3人の補佐を付けてのものでした。

その直後の大永6年(1526年)に父・親家が死去すると、道雪は元服して戸次氏の家督を継ぐとともに大友義鑑に仕えて、その偏諱を貰って鑑連と名乗り、その後も肥後・菊池氏の反叛や秋月氏の謀反の際には、他の大友諸将と鎮圧のために活躍しています。

ちなみに道雪は半身不随だったといわれており、道雪が35歳の時に炎天下の日に大木の下で昼寝をしていた際、急な夕立に襲われ雷が落ちてきたので、それを枕元に立てかけていた千鳥という太刀で切ってその場から飛びのきました。

この逸話によって、道雪は「鬼道雪」「雷神」と呼ばれるようになり、また千鳥という太刀には雷に当たった印があったことから、「雷切」と呼ばれるようになりました。

このように左足が不具になった道雪ですが、壮年の頃まで輿に載っていたという資料は残っておらず、もともと常人より膂力に勝っていたこともあり、その後もよき武者7人を斬り倒した、また騎馬で敵陣に乗り込んで戦ったなどの記録が残っています。

さて、天文19年(1550年)2月、大友義鑑が嫡男である宗麟を廃嫡にし、3男・塩市丸を後継者としようとしたため、反発した宗麟派の家臣によって襲撃・刺殺されるという、いわゆる二階崩れの変が発生すると、道雪は宗麟を支持し、彼の家督相続に尽力しました。

以後、大友氏のために筑前に進出を目論む毛利氏との戦いに精力を費やすことになり、また宗麟の異母弟・大内義長が元就に討たれ大内氏が滅びると、大内の旧領を大友氏の領土に取り込むなど数多くの功績によって永禄4年(1561年)には宗麟の補佐役である加判衆になっています。

道雪を中心とした大友氏と毛利氏との10年以上に渡る戦いは、永禄12年(1569年)11月毛利氏の撤退によってようやく終わりを告げました。

その後道雪は一転して、元亀元年(1570年)、龍造寺隆信討伐のための今山合戦に従軍し、龍造寺隆信鍋島直茂と交戦しましたが、この戦で初めて道雪が輿に乗って戦ったとの記録が残されています。

道雪は大友方の有力武将としてさらに多くの戦いに貢献し、元亀2年(1571年)、筑前国守護職に任命され、立花家の名跡を継いで立花山城主となり筑前の軍権を任されるようになりました。

その後も高橋紹運など大友方の筑前五城将と協力し筑前において数年間、数々の戦いを重ねていく中で、天正9年(1581年)には、同じ大友氏の家臣・高橋紹運の子・統虎を、自身の娘・誾千代の婿養子に迎え、家督を譲っています。

そして天正12年(1584年)に行われた沖田畷の戦いにおいて龍造寺氏が大敗し、当主の隆信も討ち死にすると、道雪と紹運は大友義統の出兵要請により両家合わせて約5千の兵で出陣し、秋月、筑紫、草野、星野聯合軍を撃破さらに翌天正13年(1585年)2月上旬からは龍造寺政家ら肥前筑前筑後・豊前連合軍約3万の大軍を大友軍9千8百の兵ながらも見事な戦術や兵器、陣形を活用して破っています。

しかし6月の柳川城攻めの最中に病を得た道雪は紹運の必死の看病もむなしく9月11日に73歳の生涯を終えました。