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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

義将として知られ、生涯を通じ大友家に尽くした武将「高橋紹運」

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●天文17年(1548年)~天正14年(1586年)7月27日
筑前岩屋及び宝満城主

高橋紹運は豊前筧城において、天文17年(1548年)大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれ、義鑑の子・大友義鎮(宗麟)と父・鑑理の名前から1字ずつ貰って鎮理と名乗っていました。

紹運の初陣は、永禄4年(1561年)13歳の時といわれており、毛利氏との第四次門司城の戦いの際でした。さらに永禄10年(1567年)には、大友氏の家臣・高橋鑑種が豊前・筑前肥前の国人衆らと共に、毛利氏の謀略によって大友氏に対して反旗を翻した際、その鎮圧のために父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣し、武功を挙げています。

このような活躍により、永祿十二年(1569年)には大友宗麟に名を鎮種と改めるように命じられ、さらに高橋氏が治めていた岩屋城と宝満城の2城を任されることになり、それからは北九州ににらみを利かせていた立花道雪と協力して筑前を支配することになりました。

その後、大友氏のために筑前筑後肥前、豊前の諸豪族との戦いに明け暮れる日が続いている中、宗麟が天正6年(1578年)に薩摩の島津氏との耳川の戦いで大敗を喫し、その戦で兄・鎮信と義兄・斎藤鎮実、さらに角隈石宗や佐伯惟教、田北鎮周など多数の大友氏の重臣の有力武将らが討ち死にを遂げてしまい、この敗戦を機に大友氏は肥前の龍造寺氏や筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らによる侵略を受けることになりました。

そんな中、共に大友氏のために戦ってきた立花道雪には男子がおらず、道雪から嫡男・統虎を婿養子に欲しいという再三の要望があったため、紹運は天正9年(1581年)統虎を道雪の娘・誾千代への婿養子とし、高橋家の当主には次男お統増を継がすしました。

さらに時が経ち、天正12年(1584年)に龍造寺隆信が島津氏との沖田畷の戦いで討死すると、続いて大友氏に対する島津氏からの攻勢が強まりました。

そんな苦しい中、宗麟の嫡男・大友義統からの要請によって、紹運は道雪と共に5千の兵を率いて、秋月や筑紫、草野、星野らを撃退し、さらにはその翌天正13年(1585年)2月上旬から4月23日にかけて、肥前筑前筑後・豊前の連合軍が約3万の軍勢をもって戦いを挑んで来たのを、紹運・道雪は他の大友諸将と共に9千8百の劣勢ながらもこれを退けました。

しかし、天正13年(1585年)9月に、道雪が病気によって死去すると、好機とばかりに筑紫広門によって宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止し、宝満城へ戻って城を奪還し、そののち広門と和睦して、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えることになりました。

天正14年(1586年)、そんな紹運に対して試練の時が訪れました、というのもついに島津氏が大友氏を滅ぼすために岩屋城並びに宝満山城のある太宰府まで北上してきたのです。

紹運は島津氏の北上を少しでも遅らせるべく、763名の寡兵を持って防御力の低い岩屋城に籠って徹底抗戦の構えを見せ、島津軍からの降伏勧告を拒絶し続けました。

島津軍の猛攻を耐え続けたものの、兵力の差は覆いがたく、約二週間に及ぶ攻防の末、紹運はじめ高橋勢は全員討死を遂げ、岩屋城は陥落しました。

その岩屋城の攻防戦においては、紹運以下全員が玉砕しましたが、一方島津軍にも3千人もの死傷者が出たといわれています。

この多大な損害によって、島津軍は軍備立て直しに時間を摂られ、豊臣秀吉による九州征討軍の九州への上陸を許してしまい、島津氏の九州制覇の野望を砕くことになりました。