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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

対馬国主で江戸幕府下では朝鮮との条約締結に尽力した「宗義智」

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●永禄11年(1568年)~慶長20年(1615年)1月3日
対馬府中藩

永禄11年(1568年)、対馬の島主・宗家第15代当主宗将盛の五男として生まれた宗義智は長兄の茂尚、次兄の義純が相次いで早世したため、天正7年(1579年)に義調の養子に入る形で宗家の当主を継ぐことになりました。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、隠居していた養父・義調が当主として復帰し、義智を後継ぎにする形をとって参陣し、秀吉から改めて対馬一国を安堵されました。

秀吉との会見において、朝鮮を服属させるよう命令を受けたため、義調は交渉を開始することになるが天正16年(1588年)に死去、その後は義智が再び家督を継いで宗家の当主となり、朝鮮との交渉も担当することになりました。

義智は、朝鮮が秀吉の要求を呑むとは到底思えず、秀吉の天下統一を祝う通信使を朝鮮に求めることにし、天正18年(1590年)に朝鮮から来日した使節を服属使と偽って秀吉に謁見させました。

このころには、秀吉は明に攻め入る方針を固めていたため、朝鮮との貿易が命綱の宗氏にとって、もし本当に朝鮮と戦争になれば宗氏にとって死活問題となることが明白なため、義智は義父の小西行長と共に戦争を避けるべく策をめぐらしましたが、いずれも失敗に終わりました。

天正20年(1592年)に朝鮮出兵が開始されると、義智は5千の兵を率いて、行長や松浦鎮信らと共に総勢1万8700の日本軍一番隊の一員として戦いに臨みました。

義智が属するその一番隊は、天正20年(1592年)4月12日に対馬を出港して釜山に上陸すると、翌13日に総攻撃をかけて攻略、さらに慶尚道忠清道・京畿道を進んで5月3日には首都漢城に入城するといった目覚ましい働きを見せました。

その一方で義智らは和平交渉に向けても動いており、碧蹄館の戦いで敗けた明軍の方でも講和の機運が起ってきたために明側との講和交渉を開始しました。

義智は行長と共に明の沈惟敬らとの和平交渉に臨みましたが、双方が希望する和平の条件との隔たりは大きかったため、国書の内容を双方にとって都合の良い内容に作り直すなどして、明の和平使節を大坂城の秀吉に会わせましたが、明の王室と秀吉をだました和平交渉が成功するはずもなく、交渉は決裂しました。

秀吉は慶長2年(1597年)2月に再度朝鮮への出兵の命令を発し、義智は当初左軍に属し前回と同じメンバーで従軍しました。

朝鮮の水軍に補給路を断たれるなど苦しい戦いを強いられる中、秀吉が大坂城で死去、それに伴い全軍が随時撤退を開始し、義智も行長と共に釜山を経て日本に帰国しました。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、行長が与した西軍に義智も加担し、伏見城攻撃や大津城攻め、さらに関ヶ原本戦においても家臣を参加させました。

関ヶ原の戦いが東軍勝利に終わったのち、朝鮮出兵で関係が悪化した朝鮮との国交修復を考慮した徳川家康によって西軍加担に関する罪に問われることがなく、所領は無事安堵され、義智は対馬府中藩の初代藩主となりましたが、行長の娘である正室とは離縁することになりました。

義智は、家康の要望に沿って朝鮮との国交回復に対して努力を行い、結果慶長14年(1609年)に朝鮮との和平条約を成立させることに成功し、朝鮮の通信使が来日することになると、宗氏は家康の計らいによって、幕府から独立した機関として朝鮮との貿易を行なう許可を受けました。

そして慶長20年(1615年)1月3日に義智は48歳で死去し、当主の座は長男の義成が継ぐことになりました。