読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

琉球の王族で、始祖は鎮西八郎為朝の子孫と伝えられる「尚寧王」

f:id:hitokoburakuda2012:20160205125936j:plain

●永禄7年(1564年)~元和6年(1620年)10月14日
琉球首里城

尚寧は、永禄7年(1564年)に琉球で王家の分家(第二尚氏)である小禄御殿3世・尚懿と、6代国王(本家)・尚永の妹である母との間に、長男として生まれました。

尚永王には男子がいなかったため、尚寧は天正17年(1589年)に第7代国王となって、尚永の娘を妻に迎えました。

その前年である永禄6年(1588年)、琉球に対して豊臣秀吉が島津氏を介して豊臣政権に従うように命じてきたため、尚寧は仕方なく秀吉に対して使者を送りました。

その後の天正19(1591年)、秀吉が朝鮮出兵を行うことになると、島津氏より兵や兵糧の提供を求められましたが、尚寧は交渉の末に兵糧を送るだけに留めることに成功しました。

しかしながら、もともと明との関係が深かったため、秀吉に協力する一方で、明に対しては秀吉による朝鮮出兵の情報だけでなく、秀吉の死去の情報などを逐一伝えていました。

秀吉の死後、慶長7年(1602年)に琉球の船が日本本土に漂着するという事件が起きると、待っていましたとばかりに徳川家康はその船に乗っていた乗組員を、賓客をもてなすように扱ったうえ、船を仕立てて琉球に送り返しました。

というのも、家康は秀吉の朝鮮出兵によって関係が悪化した明との関係を、明との交流がある琉球を通じて、いい方向に改善をしようと考えたのです。

その動きの一環で家康は、尚寧に対して日本を訪問するように求めましたが、しかし尚寧はこれを拒否、このことがのちに島津氏による琉球への侵攻を招いてしまう結果となってしまいました。

慶長11年(1606年)、尚寧は明から冊封史によって琉球王に認められ書簡を受け取りましたが、その一方で、日本国内においては島津氏が幕府に対して琉球への出兵の許可を求めたのに対して、幕府はこれを認可し、これを受けて島津氏は再度尚寧への日本訪問を促す傍らで琉球に侵攻するための準備を開始しました。

この島津氏の侵攻の目的には、島津氏が明との貿易を独占することによって、薩摩を富まして国力をつけたいという野望があったからです。

慶長14年(1609年)、ついに島津氏は3千の兵を持って琉球に侵攻し、この強力無比の島津軍に対して、尚寧は抗するすべなく首里城にて降伏を決意しました。これによって琉球は日本の薩摩藩と明との二か国に従属することになりました。

その後、尚寧は薩摩藩によって日本に連れていかれ、駿府にて家康と、また江戸で将軍・徳川秀忠と面会し、さらに島津氏の本拠である薩摩に留め置かれ、2年後に帰国を許されました。

帰国後も、尚寧は琉球の立場を守るために、奄美群島の割譲などといった島津氏からの様々な要求に対して努力を重ね、元和6年(1620年)57歳で亡くなりました。

尚、第二尚氏の陵墓は玉陵であるにも関わらず、尚寧はその王領に入らず、浦添ようどれに葬られているといわれています。

というのも、尚寧は琉球が島津氏からの侵攻を受けたことを恥じ、王家の陵墓に入らなかったという説もありますが、実際は自身が生まれた浦添の地に葬られることを希望したという説が有力です。