【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

キリシタンを保護し、また天正遣欧使節を派遣した「大友宗麟」

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●享禄3年(1530年)1月3日~天正15年(1587年)5月6日
豊後国大友氏21代当主

大友宗麟は、享禄3年(1530年)1月3日、豊後の大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれました。

天文19年(1550年)2月、父である義鑑は宗麟を廃嫡し、異母弟の塩市丸に家督を譲ろうと企み、宗麟を無理矢理に湯治へ行かせて、その間に宗麟派の粛清を計画しました。

しかしその計画を察知した宗麟派の重臣が謀反を起こして、逆に塩市丸と父・義鑑を誅殺するという政変(二階崩れの変)が起こり、これによって宗麟は大友氏の家督を相続出来ました。

周防の大内義隆が、天文20年(1551年)に家臣の陶晴賢の謀反によって殺されると、宗麟は晴賢との密約によって弟・晴英(大内義長)に大内家を継がせました。

このように大内氏の新当主に弟を送り込んだことにより、北九州で大内家に属していた国人衆が大友家にも属することになり、特に博多を得た宗麟は多大な利益を獲得することになりました。

その後、弘治3年(1557年)に、弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれ、自害して果て大内氏が滅亡すると、それを機に大内領であった豊前と筑前を攻略し、確保に成功しました。

ただ元就が北九州に進出して来ると幾度となく対立を繰り返すことになり、元就が山陰の尼子氏を滅ぼすと本格的に北九州へ触手を伸ばし、元亀元年(1570年)には毛利氏と手を結んだ龍造寺隆信との今山の戦いで弟・親貞を討たれるという大敗を喫してしまいました。

しかし翌元亀2年(1571年)、元就が死んだことによって情勢が一変し、北九州の反乱勢力が宗麟に服属を誓い、宗麟は北九州の6ケ国を支配するようになり、天正4年(1576年)には嫡男の義統に家督を譲っています。

またもともと宗麟は府内にフランシスコ・ザビエルを招いて布教を許しており、自身もキリスト教を信じるようになり洗礼を受けており、天正10年(1582年)には同じくキリシタン大名である有馬晴信大村純忠らと協力してローマに天正遣欧使節団を送り、彼らは8年に帰国、その時には宗麟は亡くなっていました。

さて、そんな中天正5年(1577年)に薩摩の島津義久が日向に進出してくると、宗麟も軍勢を率いて日向へ出張っていきました。

その目的はキリスト教の国を日向に作るためともいわれていましたが、天正6年(1578年)の耳川の戦いにて島津軍に大敗し、その際に多くの重臣を失ってしまいました。

この敗戦を機に北九州6ケ国にまで広がっていた領土の各地で反乱が続発し、さらには島津義久龍造寺隆信、秋月種実らによって大友氏の領土は圧迫されていきました。

特に島津氏の北上に対して単独では抗しきれなくなってきたため、宗麟は天正14年(1586年)、自ら大坂へ赴き、大坂城において天下統一を進めつつある豊臣秀吉と謁見、秀吉の傘下になる代わりに秀吉に助けを求めました。

しかしながら大友領へ侵攻してきた島津軍は大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を天正14年(1586年)12月に戸次川の戦いにおいて破り、さらにその勢いで豊後の臼杵城に攻め寄せましたが宗麟は秘蔵の国崩し(大砲)を使って城を死守しました。

その後天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところでついに豊臣軍20万が九州に到着し、大友軍は助かったものの宗麟自身は病気に倒れて、島津氏の降伏直前に58歳で病死しまし。

尚、秀吉は九州平定後に義統対し豊後一国を安堵し、さらに宗麟にも日向を与えようとしていましたが、宗麟はその頃すでに統治意欲を失っていたためこれを辞退した、または直前に死去したといわれています。