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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

肥前を中心に一大勢力を 築き、肥前の熊と呼ばれた「龍造寺隆信」

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●享禄2年(1529年)2月15日~天正12年(1584年)
肥前佐賀城主

龍造寺隆信は、享禄2年(1529年)2月15日、肥後の少弐氏の武将で会った水之江龍造寺周家の長男として生まれ、天文4年(1535年)には宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて、円月と名乗っていました。

しかし少弐氏に対して謀反の疑いを掛けられた祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、天文14年(1545年)に少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺されましたが、翌天文15年(1546年)、一族の実力者であった曽祖父・家兼が蒲池鑑盛の援助を得て馬場頼周を討ちとり龍造寺氏を再興しました。

隆信の器量を以前から買っていた家兼は、隆信に水之江龍造寺氏を継ぐように遺言を残し、家督を継いだ隆信は、龍造寺本家の当主・胤栄の命令で天文16年(1547年)に主筋である少弐冬尚を攻めて勢福寺城より追放しました。

その後、天文17年(1548年)に龍造寺胤栄が死去したため、隆信はその未亡人を娶って本家をも継ぐことになりましたが、その家督継承に不満を持つ家臣らもいたため、西国随一の戦国大名である大内義隆と手を結び家臣たちの不満を抑え込みました。

後ろ盾であった大内義隆が、天文20年(1551年)に家臣の陶晴賢の謀反によって討たれると、隆信は不満を爆発させた家臣たちによって肥前を追われ、筑後柳川城主の蒲池鑑盛の下に落ちていきました。

隆信は天文22年(1553年)、蒲池氏の援助を得て挙兵し、肥前の奪還を果たした後は勢力拡大に尽力し、永禄2年(1559年)にはかつての主家・少弐氏を攻め、少弐氏を完全に滅ぼしました。

このように肥前の諸豪族を次々と降し、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立しましたが、この急速な勢力拡大に危機感を覚えた有馬氏・大村氏の連合軍が、永禄6年(1563年)に攻められました。

しかし隆信は、これを退けて南肥前にも勢威を及ぼすようになりますが、今度は豊後の大友宗麟が、少弐氏の生き残りであった少弐政興を支援し隆信に対抗し、永禄12年(1569年)には自らが大軍を率いて肥前侵攻を行ないましたが、中国の毛利元就が豊前侵攻により、宗麟が肥前から撤退していきました。

しかし元就を破った宗麟が、元亀元年(1570年)に再度侵攻を試みるが、鍋島直茂の策である奇襲攻撃にて撃退したものの、大きな勢力を持つ大友氏には抗しきれず、和睦を結ぶことになりました。

隆信はその後、元亀3年(1572年)に少弐政興を肥前から追放し、西肥前、東肥前を平定、そして南肥前の大村氏、有馬氏を降して肥前の統一を完成し、天正8年(1580年)4月に政治・軍事の実権は握りながらも家督を嫡男の政家に譲りました。

そんな中、天正6年(1578年)の耳川の戦いで宗麟が島津義久に大敗すると、隆信は動揺して混乱の極みにある大友氏の領国を侵食し、同時に大友氏からの自立を果たしました。

その後も天正8年(1580年)までに筑前筑後、肥後、豊前など広大な地域を勢力下に置くことに成功したものの、天正9年(1581年)に相良氏を従えた島津氏の北上が始まると一気に情勢は変わってきました。

そして天正12年(1584年)3月に有馬晴信が島津氏への従属を決めると、隆信は自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦のため5万7千の大軍をもって進軍を開始しました。

対する島津軍の兵力は1万未満と圧倒的な兵力差をもっての戦いでしたが、島津家久による地形や戦術を巧みに活かした戦術によって大敗北を喫し、多くの将兵を失ったうえ、隆信自身も討ち取られて、56歳の生涯に終止符をうちました。