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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

朝鮮出兵と関ヶ原で島津の武名を天下にとどろかした「島津義弘」

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●天文4年(1535年)7月23日~元和5年(1619年)7月21日
●島津家17代当主

天文4年(1535年)7月23日、薩摩の島津貴久の4兄弟の次男として生まれた島津義弘は、天文23年(1554年)、父と共に大隅国の岩剣城にて初陣を飾り、弘治3年(1557年)には、大隅の蒲生氏を攻めた際に5本の矢を受けて重傷を負いながらも、初めて敵の首級を挙げました。

その後は日向の伊東氏と戦いを繰り広げ、1564年4(永禄7年)には飯野城を居城とし、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、伊東義祐が3千の兵を率いて攻めてきましたが、義弘は10分の1の兵である3百の寡兵で敵に奇襲をかけ、これを打ち破り、義祐を日向から追放し、義祐は豊後の大友宗麟のもとへ落ち延びてゆきました。

その義祐と共に天正6年(1578年)、豊後から大友宗麟が遠征してきましたが、耳川の戦いで宗麟を破る武功を挙げています。

さらに天正13年(1585年)には肥後へ攻め入り阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、当主となった兄・義久の代わりに島津軍の総大将として転戦し、島津の領土を一気に広げました。

九州統一を目前にした天正15年(1587年)、宗麟からの援軍要請を受けた豊臣秀吉の軍勢が九州へ上陸、義弘は秀吉の弟・秀長と日向根白坂で戦い、自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦をしましたが、圧倒的な兵力差のため敗北しました。

その後、義久が降伏した後も、義弘は徹底抗戦を主張していましたが、最終的には義久からの説得によって降伏を決意し、秀吉から大隅一国と日向の一部を安堵されました。

豊臣政権に組み込まれてからは、協力を惜しまず、天正20年(1592年)から始まった朝鮮の役では病気の兄・義久に代わって参戦しました。

しかし国元の体制の問題や一揆によって軍役の動員がはかどらず、大いに面目を失った上、朝鮮対陣中に次男の久保を失うなどの不幸におそわれました。

しかしながら、慶長3年(1598年)9月の泗川の戦いにおいては、明・朝鮮の大軍を7千の寡兵で打ち破り、義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)として朝鮮・明軍から恐れられました。

さらにその後、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、島津家では義弘の子・忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され、忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こすなどの御家騒動が起こるなど、家臣団の分裂の兆候が出てきました。

慶長5年(1600年)に、徳川家康石田三成の間で関ヶ原の戦いが起こると、当初義弘は家康からの援軍要請により1千の軍勢を率いて参戦し、家康の家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に向かったが、元忠から入城を拒否されたため、西軍総勢4万人の中で孤立することを恐れ西軍への参戦を決意しました。

同年9月15日の関ヶ原の戦いに参陣したものの、戦いが始まってから数時間、一進一退の攻防が続くなか、義弘は戦場では兵を動かそうとしませんでした。

すると14時頃に小早川秀秋の寝返りにより、奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を開始しました。

結果、島津隊は退路を遮断されて、敵中に孤立することになったため一時義弘は切腹の覚悟を固めましたが、甥・豊久の説得を受けて一転、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵中を突破することを決意し何とか死地をからの脱出に成功しました。

薩摩に戻った義弘は、家康との粘り強い交渉の末、慶長7年(1602年)ついに家康から本領安堵を認められました。

その後、大隅の加治木に隠居した義弘は若者たちへの教育に力を注ぎ、元和5年(1619年)7月21日に85歳で死去しました。