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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉の懐刀でありながら、最も恐れられた男「黒田官兵衛」

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●天文15年(1546年)11月29日~慶長9年(1604年)3月20日
●豊前中津城

黒田官兵衛は、播磨の小寺政職に仕え、姫路城代を任されていた黒田職隆の嫡男として生まれました。

永禄4年(1561年)、小寺政職の近習に取り立てられ、翌永禄5年(1562年)には、父・職隆と共に初陣を飾り土豪を征伐、さらに永禄10年(1567年)頃には職隆から家督と家老職を受け継いで、小寺政職の姪である櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎えました。

そんな中、尾張織田信長が勢力を伸ばし始めると、官兵衛は主君である小寺政職織田氏への臣従を勧め、7月には自らが羽柴秀吉の取次によって岐阜城において信長に謁見し、信長より名刀「圧切長谷部」を拝領しました。

天正5年(1577年)、秀吉が中国攻めのために播磨へ進駐してくると、官兵衛は居城であった姫路城を秀吉に進呈し、自らは父の隠居城である国府山城に移り住みました。

毛利氏との戦いが一進一退する中、天正6年(1578年)10月に信長から摂津国を任された重臣の荒木村重が謀反を起こして有岡城に籠城し、それに呼応して主君である小寺政職も信長を裏切ろうとしたため、官兵衛は10月に村重を思いとどまらせるために有岡城に乗り込みましたが、逆に捕えられて城内の土牢に幽閉されてしまいました。

天正7年(1579年)10月19日、有岡城の落城の際に官兵衛は栗山善助に救出され、政職が一族郎党と共に鞆の浦へ逃がれていったため、官兵衛は秀吉の配下となって中国方面攻略に尽力しました。

しかし天正10年(1582年)、毛利氏の属将・清水宗治が守っている備中高松城を水攻めにしていた最中の6月2日、京都にいた信長が本能寺にて明智光秀により弑されたことを知った官兵衛は、秀吉に毛利輝元と和睦したうえ、近畿へ馳せ戻り光秀を討って天下獲りを勧めましたが、そのことによって、逆に秀吉から警戒の目を向けられてしまうことになりました。

官兵衛はその後も秀吉の天下統一を助けて、四国攻めや九州攻めに従軍し、武功を挙げ、天正15年(1587年)には豊前六郡を与えられました。

天正17年(1589年)、秀吉に対して家督を長男の長政に譲り自身は隠居を申し出ましたが、秀吉は家督の相続は許したものの隠居は許さず、秀吉の側近として、小田原の北条討伐や朝鮮への出兵にも従軍しました。

その秀吉が慶長3年(1598年)8月に大坂城で死去すると、その死を境として徳川家康が専横を極め、その家康(東軍)に非を鳴らして挙兵した石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発しました。

この戦いにおいて官兵衛は長政と共に家康に味方すると見せつつ、自身最後の天下獲りを目指して九州における西軍に加担する勢力と戦い、勢力を広げました。

しかしながら、関ヶ原の戦いは予想に反して1日で終わってしまい、官兵衛の目論見はもろくも崩れ、結局切り取った領土も官兵衛のものにはなりませんでした。

関ヶ原の戦い後、長政の勲功によって黒田家は家康から筑前国名島(福岡)52万3千石への加増移封が言い渡されました。

一方、家康から官兵衛にも領地加増の沙汰がありましたが、官兵衛はこれを辞退し、中央の政治からは完全に離れて隠居生活を送りました。

慶長9年(1604年)3月、官兵衛は長政を枕元に呼んで、おそらく20日の辰の刻(午前7時半頃)頃に自らが死を迎える旨を予言しました。

さらに倹約家の官兵衛は、葬礼に費用をかけないこと、仏事に専心しないことを、遺言として残しています。

その後、長政の必死の看病も実らず、官兵衛は予言通り、3月20日辰の刻に59歳で亡くなりました。