読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

賤ヶ岳の七本槍”のひとり、秀吉の子飼いである「加藤清正」

f:id:hitokoburakuda2012:20160205124556j:plain

●永禄5年(1562年)6月24日~慶長16年(1611年)6月24日
●肥後熊本城主

尾張国愛知郡中村(現在でいう名古屋市中村区)に住む刀鍛冶・加藤清忠の子供として生まれた加藤清正は、母親が羽柴秀吉の母である大政所の従姉妹であったことから、近江の長浜城主になったばかりの秀吉に仕えました。

天正4年(1576年)には170石を与えられるなど、清正は子飼いの部下がいない秀吉から親戚ということもあって将来を大いに期待され、天正10年(1582年)には中国方面を経略中だった秀吉のもとで冠山城を攻めた際、城に一番乗りを果たして清正は、豪のものとして名高い竹井将監を討ち取りました。

さらに天正10年(1582年)の本能寺の変後、秀吉に従って山崎の戦いに参加し、その翌年の賤ヶ岳の戦いにおいては敵将・山路正国を討ち取り、福島正則らと共に秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として称され、3,000石の所領を与えられました。

天正13年(1585年)の四国征伐にも従軍した清正は、秀吉の関白就任に伴い自身も従五位下・主計頭に叙任され、翌天正14年(1586年)には秀吉に従って九州平定にも参加しました。

その九州平定の功で新しく肥後国の領主となった佐々成政が失政によって改易になると、清正は代わりに肥後北半国19万5,000石を与えられました。

肥後半国の領主となった清正は、治水だけではなく田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、商業政策においても見事な行政手腕を発揮しました。

その後、文禄元年(1592年)から文禄・慶長の役が始まり、文禄の役で清正は、小西行長と共に先鋒を任され、鍋島直茂、相良頼房などを傘下に二番隊主将として出陣しました。

小西行長が率いる一番隊とは別ルートを取って首都漢城への一番乗りを争い、負けてしまったものの、朝鮮の二王子を捕虜にするなどの武功を挙げました。

しかしながら、明との和平交渉を巡って石田三成小西行長と対立し、石田三成の讒言によって秀吉の怒りをかい蟄居を命じられたものの伏見大地震の際に、すぐさま伏見城へ駆けつけ、動けない秀吉を背負って脱出させた功によって蟄居を解かれました。

その秀吉が、慶長3年(1598年)に死去すると、五大老である徳川家康の養女を継室に迎え、慶長4年(1599年)3月28日に同じく五大老前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長らと共にもともと遺恨を抱えている石田三成襲撃事件を起こし、これが失敗に終わると家康への接近をさらに強めました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが勃発すると、九州にいた清正は黒田如水とともに東軍として小西行長宇土城や立花宗茂柳川城などを落とし、九州の西軍勢力を攻略した功によって、家康から南肥後を与えられ52万石の大名となりました。

そして慶長6年に日本三大名城のひとつである熊本城の普請に取り掛かり、7年掛けて完成させ、さらには慶長8年(1603年)には豊臣姓を下賜され、また慶長10年(1605年)には従五位上・侍従兼肥後守に叙任されました。

その後清正は、徳川家のために名古屋城の普請に協力しつつも、慶長16年(1611年)3月には徳川家と豊臣家の和解のため、二条城における家康と豊臣秀頼との会見実現に尽力し、無事成功させましたが、帰国途中の船内で発病し6月24日に熊本で50年の生涯に幕を閉じました。この死はタイミング的に毒殺説もありますが、真偽はわかっていません。

清正の死後、豊臣家は滅亡への道を辿ることを考えると、清正の死もさることながら、清正にいま少し豊臣家の将来を見通す眼力があればと惜しまれています。