【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

東軍・伊達政宗が上杉景勝の白石城を攻めた「白石城の攻防戦」

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宮城県白石市
●1600年(慶長5年)
伊達政宗(4千)VS上杉景勝(1千)

《合戦までの経緯》
1600年(慶長5年)徳川家康は上洛命令を拒否した上杉景勝に対し、豊臣政権に対する謀心があるとの理由から、諸将に対して会津征伐の軍令を下しました。

この会津への征討が引き金となり、日本全国を二分する関ヶ原の合戦が起こることとなり、奥羽や九州でも東軍(徳川方)と西軍(石田方)に分かれての戦いが勃発しました。

その奥羽においての東西両軍の兵力は、東軍が伊達政宗(58万国)・最上義光(24万石)・南部利直(10万石)・秋田実季(5万2千石)・津軽為信(4万5千石)に対して、西軍は上杉景勝(120万石)、あと中立として岩城貞隆(12万石)・相馬義胤(6万石)といった情勢でした。

このように奥羽における西軍は、上杉景勝だけでしたが、その上杉が持つ領土は現在の浜通り地方を除く福島県山形県の南部にまでまたがる広さを持ち、多くの兵を抱えていました。

西軍に加担する上杉家が、攻撃の目標に掲げたのが東軍の最上氏で、最上氏の居城である山形城を攻めるべく、上杉軍は北上を開始しました。

《合戦の内容》
上杉軍が最上氏の山形城への行軍を開始する中、伊達政宗が1600年(慶長5年)7月25日に上杉家の甘粕景継が守る白石城に攻撃を仕掛けました。ただこの時、白石城主の景継は会津へ出張っており、城の守りは甥の登坂式部が任されました。

攻め手の伊達勢はまず三ノ丸を焼き払って包囲陣を縮め、さらには二の丸や本丸において両軍兵士による白兵戦が繰り広げられ、この攻防によって城方の上杉勢は伊達勢によって約7百の兵が討ち取られました。

城の指揮をとっていた登坂式部は、翌26日これ以上の抵抗はいたずらに兵の命を散らすのみと考え、城を伊達勢に引き渡して、投降しました。

《合戦の結果》
一方、山形城を目指して北上していた上杉勢は9月13日に畑谷城を落とし、16日には上山城と長谷堂城に向かいました。

両城において上杉勢と最上勢による攻防戦が繰り広げられ、上杉勢が戦いを優位に進めていましたが、9月15日に関ヶ原にて行われた合戦にて西軍が敗れたとの報を受けて撤退を余儀なくされました。

その後、関ヶ原の合戦における論功行賞では、西軍に加担した上杉は改易を免れたものの、120万石あった領土のうち90万石を召し上げられ、米沢への転封を言い渡されました。

逆に上杉勢の猛攻を凌ぎきった最上氏は東軍に加担した大名の中で特に厚く遇され、33万石の加増を受けました。それに対し、上杉方の白石城を攻略した伊達氏は最上氏に負けず劣らずの貢献度であり、かなりの加増を期待していましたが、結果的には2万石の加増のみとなりました。

伊達氏への加増に関しては、関ヶ原の合戦の前に、家康から政宗に対して東軍への加担の見返りとして50万石の加増を約束しており、もともとの伊達家の所領50万石に、加増の50万石を加えて100万石となることから、100万石のお墨付きと呼ばれていました。

しかしながら、同じく東軍に属していた南部領において、一揆を企てるなどの不穏な行動をとったと疑われたため、家康はこのお墨付きの約束を無効としました。

ただ巷の噂では、伊達政宗の才知と若さを鑑み、もし政宗に対して本当に100万石の領土を与えてしまうと、徳川家が伊達家に取って代わられることを恐れた家康が、お墨付きを反故にしたと、まことしやかに語られています。