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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

南部本家に反旗を翻した津軽為信が津軽を統一「波岡城の攻防戦」

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青森県南津軽郡浪岡町
●1590年(天正18年)
津軽為信(不明)VS北畠顕村(不明)

《合戦までの経緯》
三戸の南部氏の一族で下久慈を所領としていた大浦氏は、南部本家の命令で1491年(延徳3年)に津軽種里の地に移り住み、津軽の地に地盤を固めていきました。

ただ、もともと大浦氏は南部本家に仕えており、その三戸城主である南部家は現在でいうところの岩手県から青森県にかけての広大な領地を治めていて、その南部家の歴代の当主の中でも特に逸材だった南部晴政は南部氏を有力な戦国大名として地位を確固たるものにしました。

しかし1582年(天正10年)にその晴政が亡くなると、南部家において家督争いが起こり、南部家の勢力が分裂してしまいました。

一方、大浦為信は後に、津軽弘前藩の藩祖となり姓を津軽姓に改めますが、それまでは大浦氏を名乗っており、1567年(永禄10年)17歳にして当主になると、南部家中が内部抗争でゴタゴタしている隙に、南部本家からの独立の態度を明確にし、津軽の統一に向けて活動を開始しました。

為信は、1571年(元亀2年)5月5日、大浦氏と共に津軽の支配を任されてきた石川城の南部高信に対してわずかな兵で奇襲攻撃を仕掛けて、城主の隆信を切腹に追い込みました。

さらに1575年(天正3年)には、南部の息が掛かった大光城の瀧本播磨を津軽から追い落とし、南部氏の勢力を津軽から排除することに成功しました。

この戦国時代を通じて、津軽のある奥羽地方では、このような下剋上の例はほとんどなく、伊達や最上、相馬といったような古くからの名門が勢力を伸ばしていくパターンが多かったのですが、この大浦氏のようなケースは相当珍しいものだったようです。

《合戦の内容》
津軽の完全統一を目論む大浦為信にとって、その目的を達するためには浪岡城の北畠氏という大きな障壁が残っていました。

その北畠氏は南北朝の頃、南朝方として足利尊氏の心胆を寒からしめた北畠顕家の子・顕成を始祖とする奥羽でも指おりの名族であり、その権威及び勢力には恐るべきものがありました。

しかしながらその北畠家も戦国時代に入ると、内部での権力闘争によって勢力の衰えが隠せない状況となっている中、為信は北畠氏の重臣たちや浪岡の民を上手く手なずけるなどして、波岡城を陥れる準備を着々と進めていきました。

そして1590年(天正18年)、為信は波岡城攻略に取り掛かるのですが、大浦勢はまずあらかじめ抱き込んでおいた無頼漢たちに浪岡城下で暴れまわらせ、大いに混乱させたのち、為信が陣頭指揮をとる兵たちを三方向から城下に突入させました。

浪岡城の城兵も必死の防戦を行い、頑強に抵抗したものの、大浦勢の勢いには逆らえず、為信は浪岡城を奪取したうえ、城主の北畠顕村を捕えて自刃させて、北畠氏を滅亡に追い込みました。

この合戦によって為信は、ついに津軽全土をほぼ手中に収めることが出来ました。

《合戦の結果》
南部氏は、大浦氏に奪い取られた津軽の国を奪い返そうと試みましたが、為信は先手を打ち、その時期にはすでに天下人に近い位置にまで上り詰めた豊臣秀吉に早くから取り入って、為信が津軽地方に関する支配権を安堵してもらうことに成功し、この先を読んでかつ巧妙である外交戦術によって、南部氏が津軽に手を出すことが出来ない状態を作り上げました。

それ以降、津軽氏と南部氏は江戸時代を生き残り、明治維新を迎えるまでともに生き残ることが出来ましたが、過去のいきさつのため、隣国どうしながらもお互い(特に南部氏が)憎しみ合っていたといわれています。