【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

ついに九州の島津義久が羽柴秀吉の軍門に下る「高城の戦い」

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●宮崎県児湯郡木城町
●1587年(天正15年)
羽柴秀吉(22万)VS島津義久(2万)

《合戦までの経緯》
羽柴秀吉本能寺の変織田信長が非業の死を遂げた後、5年間を掛けてほぼ全国の平定を終え、残る九州を平定すべく狙っていました。

その九州では、島津氏が大友氏や龍造氏を破って、勢力を大いに拡大していましたが、そんな中、島津氏に攻めたてられていた大友宗麟は1586年(天正14年)3月、自ら救援を請うべく大坂城の秀吉のもとへ出向きました。

宗麟からの救援要請を受けて、九州への出兵を決定したものの、緒戦の戸次川における戦いに敗れた秀吉は、1587年(天正15年)1月に天下人の威信を掛けて自らが九州へ向けて島津討伐に向かうことを決定し、2月10日には羽柴秀長が先陣として大和郡山城を出発させ、3月1日には緋縅の鎧鍬形に赤地で錦の直垂を着た秀吉が本隊を従え大坂城を発ち、同月28日には豊前の小倉に入りました。

途中、門司城において軍議を開いた秀吉は、出陣前から計画していたように豊後方面には先陣として大将である羽柴秀長蜂須賀家政長宗我部元親らの四国勢を加え、豊後から日向を通って大隅へ向かうように指示を出し、一方4万の兵で参戦している毛利勢には黒田官兵衛を目付として豊前への出兵を命じました。

小倉に到着後、秀吉は10日程掛けて九州の諸勢力に対して調略の手を伸ばすのと並行して3月29日には馬嶽に出て秋月種実・種長親子を蒲生氏郷ならびに前田利長が率いる兵5万をもって攻め、秋月氏は持つ楢柴の茶壺を差し出すことによって降伏を認められました。

《合戦の内容》
秀長軍は4月上旬、島津氏の重臣である山田有信が数百の兵で守っている日向の高城攻めを企て、城の周囲に多くの砦や陣所を布いて包囲体制を作り上げたうえ、猛烈に城を攻めたてました。

しかし城将の山田有信は攻め寄せる秀長軍に対して粘り強く抵抗しましたが、大多数の兵力と鉄砲を有する秀長軍の攻撃を前にして、高城の落城は時間の問題となりました。

その高城に対して島津義久は救援のために、4月17日の夜、島津義弘や家久と共に選り抜きの精兵を率いて、根白坂の秀長軍陣営に対して夜襲を仕掛けました。

島津軍は昔ながらの抜刀による勇猛果敢な突撃によって秀長軍に向かい、その攻撃によって苛烈な戦いが何度も繰り返し行われたといわれています。

しかしながら根白坂の砦には空堀や塀杭などが堅固に巡らされ、簡単に乗り込むことが出来ず、さらには秀長軍の多数の兵力ならびに備えていた数千の鉄砲による攻撃のため、島津軍は死者約三百、負傷者数百を出したため、それ以上の攻撃を諦め、付近の村々に火を放って、薩摩へと撤退していきました。

勢いに乗る秀長軍は、翌日18日高城に対し、圧倒的な物量をもって力押しに総攻撃を仕掛けたため、数々の戦において勇猛をもって名を響かせていた島津勢でもこの鉄砲隊の火力にはなすすべがなく、高城は9百余人の死傷者を出してついに落城しました。

義久は、秀吉軍に対してこれ以上の抗戦は無駄に死傷者を増やすのみだと考えて、自ら剃髪のうえ名を龍伯と改め、5月8日秀吉に対して降伏の旨を申し入れました。

《合戦の結果》
秀吉は、義久からの降伏を受け入れ、翌日には九州の国分けを実施し、義久には薩摩・大隅・日向を領土として認めました。

さらに九州の他の地域については、佐々成政を肥後に、小早川隆景には筑前及び筑後肥前の二郡ずつを、また毛利秀包には筑後三郡を、さらには黒田官兵衛には豊前六郡を与え、九州における勢力図を大きく変更し、九州征伐を完了させました。