【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

長宗我部元親が四国平定に向けて大きく前進「十河城の攻防戦」

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香川県高松市
●1584年(天正12年)
長宗我部元親(不明)VS十河存保(不明)

《合戦までの経緯》
中富川の戦い長宗我部元親に敗戦を喫した三好勢は、十河存保によって讃岐にある十河城と虎丸城を拠点として抵抗を続けていました。

ただ三好氏は攻め寄せてくる長宗我部勢に対して独力では対抗できないため、中央で巨大な勢力を持ちつつある羽柴秀吉からの援軍に頼らざるを得ませんでした。

しかしその頼みの綱の秀吉は、この時点では越前の柴田勝家三河徳川家康などの有力大名との戦いに全精力を注いでいたため、三好氏の救援要請に応える余裕がありませんでしたが、ただ頼ってきたものを見捨てることも出来ないため、とりあえず淡路の洲本城主・仙石久秀へ三好氏を助けるべく命を下しました。

一方、悲願である四国統一を目指していた長宗我部元親は、本能寺の変の後1582年(天正10年)6月に山崎の合戦にて羽柴秀吉明智光秀を討ち破り、信長の後継として天下に覇を唱えるべく動き始めたのを見ると、まだまだ群雄割拠の状態が長く続かないと、自身の野望が叶えられないと考え、柴田勝家徳川家康雑賀衆など秀吉と敵対する勢力との同盟を結ぶことによって、秀吉の天下統一を阻止すべく働きかけました。

しかしこのことがのちに秀吉によって成敗を受けることにつながってしまうのでした。

《合戦の内容》
長宗我部勢は中富川での戦いに勝利したあと、その勢いを駆って1582年(天正10年)10月、讃岐にある三好勢の拠点のひとつである十河城へ攻撃を仕掛けました。

しかし十河存保が守るこの城の抵抗がおもったより激しく、かつ長宗我部勢の補給路の確保が出来ておらず、兵糧も乏しくなってきたため、一旦兵を引くことになりました。

その翌年4月、秀吉から三好勢の救援を命じられ、四国に出張ってきている仙石久秀の籠る引田城に対し、攻撃を仕掛けてこれを破り敗走させると、三好氏は四国において完全に孤立無援の状況に置かれてしまいました。

そして6月のはじめ、長宗我部勢はまず、三好氏のもう一つの拠点である虎丸城を攻め落とし、さらに同月11日には十河城の攻略にも成功し、十河存保は城を脱して敗走させることによって長宗我部氏は四国における三好氏の勢力を一掃させました。

《合戦の結果》
長宗我部氏によって、讃岐が平定されると、四国において長宗我部氏に敵対する勢力は伊予の湯築城主・河野氏と黒瀬城主・西園寺氏のみとなりました。

この両氏は毛利氏からの救援軍とともに、長宗我部氏に対して徹底抗戦を続けていましたが、西園寺氏が1584年(天正12年)10月に黒瀬城を攻め落とされて滅亡し、その翌年春には河野氏が長宗我部氏の攻勢に屈し、その軍門に下ることになった時点で長宗我部氏は伊予一国の平定も完了し、ついに四国統一を果たしました。

しかし、その後秀吉によって四国の討伐が行われ、当初元親は阿波と讃岐を差し出す代わりに伊予を確保するという条件で秀吉に講和を図りましたがそれが認めらなかったため、元親は全勢力を傾けて秀吉の大軍に対して戦いを挑みましたが、秀吉の大軍に抗するすべもなく秀吉に降伏することになり、最終的には土佐一国のみを安堵されました。

長宗我部元親は、織田信長に鳥なき島のこうもりと例えられたように、鳥のいない四国では元親の思い通りにことが進みましたが、鷹や鷲のような天下人である信長や秀吉と同じ土俵で戦うことになると、残念ながら敵わず従わざるを得なかったといえます。