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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

信長が逆臣・明智光秀により京都の本能寺に散る「本能寺の変」

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京都府京都市
●1582年(天正10年)
織田信長(100)VS明智光秀(1万3千)

《合戦までの経緯》
明智光秀は、信長の家臣の中でも軍の司令官としてだけではなく、知将としても知られており、信長からも大いに信頼を得ていました。

信長は甲斐の武田氏を滅ぼしたのち、盟友の家康を1582年(天正10年)5月に安土城に迎え、その接待の役目を光秀に命じていました。

しかし、中国方面の攻略を担当している羽柴秀吉から援軍の依頼が届くと、光秀の任を解き中国方面への出兵を命じました。

光秀は遠征の準備のため、5月26日に一度丹波亀山へ戻りましたが、この前後で信長への謀反の意思を固めたといわれています。

その理由としては、丹波と近江を召し上げる代わりに、まだ獲ってもいない出雲と石見の二ヶ国を与える、と言われたことなどによる怨恨説や朝廷が信長に対する恐れから光秀に謀反を働きかけたなど、近年様々に取りざたされていますが、どれも決定的なものではありません。

信長自身も秀吉への援軍に赴き、5月29日に安土を出発し、わずかな供回りのみ引き連れて京都の本能寺に宿泊することになりました。

一方1万3千の兵を率いた光秀は秀吉の救援のため、6月1日の夕刻に亀山城を出て、老ノ坂へと進み、本来であれば三草越えを経て備中へ向かうところ、光秀は本能寺の信長を討つため沓掛を通って京都へ向かいました。

そして条野付近で重臣たちに本能寺にいる信長を討つことを告げ、天野源右衛門を斥候として本能寺の様子を探らせました。

光秀は沓掛で休息をとったのち、桂川を越えたあたりで兵の端々に至るまで本能寺の信長を討つべく伝令を伝え、まだ眠りの中にいる信長に襲い掛かりました。

《合戦の内容》
寝込みを襲われた信長は最初、足軽の間で起こった喧嘩程度に思っていたが、鬨の声や銃声が大きくなり、宿直のものから水色桔梗の旗印が乱立していることを聞くと、これが光秀の謀反であることを理解しました。

本能寺に詰めていた御番衆と信長の小姓衆は一緒になって、四方より攻め込んでくる光秀勢に応戦しましたが、屋代勝助ら4名は厩から敵勢に斬り込み討死、さらに厩では中間衆20数名が討死しました。

また御殿においては高橋虎松が奮戦し、しばらく敵を食い止めていたが力尽きて虎松を含む20数名が討死し、湯浅直宗及び小倉松寿は本能寺の外から駆けつけたものの、両名とも討死にしました。

そんな中、信長は最初弓を取って戦っていましたが、すべての弓の弦が切れてしまったので、つづいて槍を取って敵を突き伏せて戦いました。

しかしそのうち右肘に槍傷を受けたため、すでに火がかけられている殿中の奥深くに籠って自刃し、午前8時に本能寺での戦いは終結しました。

さらに信長の嫡男で、織田家の当主である信忠は、その日妙覚寺に宿泊していましたが、光秀の謀反を知って二条御新造に退き、明智の兵と戦いましたがやはり寡兵だったため、自ら命を絶ちました。

《合戦の結果》
織田政権は織田信長と信忠の死によって崩壊し、信長を討ち取った光秀が天下人となったが、中国地方で毛利と戦っていた羽柴秀吉が、いち早く本能寺の変の情報を得て、すぐさま毛利と和睦し、中国大返しと呼ばれる勢いで畿内に戻り、山崎の戦いにおいて光秀軍を破りました。

光秀の天下は僅か13日間で終わりを遂げ、この事件は戦国時代において最後の下克上といわれて、こののち戦国乱世は一気に終わりに向かって進んでいきました。