【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

長宗我部元親が三好領である隣国阿波へ侵攻「中富川の戦い」

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徳島県徳島市
●1582年(天正10年)
長宗我部元親(2万3千)VS三好康長(7千)

《合戦までの経緯》
生まれつき病弱だった長宗我部元親の末の弟である島弥九郎は、1571年(元亀2年)の春、有馬温泉にて療養をするために、土佐を発ちました。

有馬へは海路を取った弥九郎一行でしたが、阿波沖を通過中に風雨が強くなったため、奈佐港に避難していました。

もともと長宗我部元親に滅ぼされた安芸氏の一族である海部城主・海部友光は、その情報を入手すると元親への恨みを晴らすチャンスとばかりに弥九郎一行に襲い掛かり、討ち取ってしまいました。

弟を殺された元親は怒り心頭に達し、土佐の軍勢を率いて1575年(天正3年)8月に阿波へ侵入し、海部城へ押し寄せました。

阿波へなだれ込んだ長宗我部勢は、1577年(天正5年)には海部城及び日和佐城を落として、南阿波を勢力下に加えました。

さらに長宗我部勢は、四国中央部の山間部に位置し、西にある境目峠を越えると伊予国、北にある猪ノ鼻 峠を越えると讃岐国、東にある吉野川を下ると阿波国、南にある吉野川をさかのぼると土佐国というように四国の要衝といえる位置にある白地城に狙いを定めました。

しかし元親は吉野川とその支流馬路川との合流地点という天然の要害に位置している白地城をなかなか攻めきれませんでしたが、元親は白地城に対して得意の調略を施し、1578年(天正6年)に城を手に入れました。

その後もこの白地城を有効に利用し、元親は1579年(天正7年)までに藤目城や仏殿城、重清城など攻略し、着々と領土を広げていきました。

その一方で元親は、中央の政局で大いに勢力を伸ばしている織田家に対して以前から関係の構築に力を入れており、信長の重臣である明智光秀の家臣・斉藤利光の妹を妻に迎え、さらには嫡男の烏帽子親を信長に依頼し、信長より信の一字を与えられて信親と名乗ることになりました。

そんな中、畿内周辺では本願寺衆徒と共に織田氏と戦いを繰り広げていた三好政康が、1575年(天正3年)4月に信長と和議を結んで織田氏の中に組み込まれました。

その三好氏が織田信長に対し、元親にゆる阿波の三好領への侵攻に対し、援助してほしい旨泣きついたため、信長は1582年(天正10年)5月、三男・信孝と丹羽長秀他の四国討伐の軍を催し、大坂に集結させました。

さらには元親に服従していた四国の土豪も、信長勢の四国侵攻を聞いて離反してしまい、元親は一気に苦境に立たされました。

しかしここで明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が勃発し、一部の兵が四国に上陸していた信長軍は大いに混乱を来たし、四国征伐は立ち消えとなってしまいました。

本能寺の変によって危機を脱した元親は、この機会に一気に攻勢に出るか、もしくは力を蓄えるかということで家中の意見が分かれ、特に家老たちは持久戦を支持しましたが、普段は農地を耕しているものの、いざ出陣の命が下されると兵士となって戦いに駆け付けるという土佐特有の一領具足をはじめとする下級武士たちが決戦を主張したため、元親は家臣たちに阿波の勝端城へ進軍する旨を宣言しました。

《合戦の内容》
長宗我部軍と三好軍は中富川を挟んで対陣し、8月28日に長宗我部軍が渡河を敢行、そして三好軍を打ち破ることに成功しました。

さらに9月21日には勝幡城を攻略し、勝幡城を守っていた十河存保は讃岐へと落ちてゆきました。

《合戦の結果》
三好勢はそれ以降自力では元親に抗することが出来ず一気に守勢に立たされましたが、羽柴秀吉が信長の後継者に改めて秀吉に近づき、改めて四国への救援軍を依頼しました。