読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

織田信長による中国地方攻略のための緒戦「上月城の攻防戦」

f:id:hitokoburakuda2012:20151210130433j:plain

兵庫県佐用郡上月町
●1578年(天正6年)
織田信長(1万)VS毛利元就(3万)

《合戦までの経緯》
織田信長は、中国地方の雄・毛利元就に攻められていた出雲の名門・尼子氏が因幡の国を取られそうになっているのを良い機会とし、尼子氏を救援するという名目で1577年(天正5年)10月に出兵を行いました。

信長は同月23日に、羽柴秀吉司令官に任命し、中国方面に向かわせ、その秀吉は本拠を姫路城に定め、中国地方の攻略に本腰を据えました。

秀吉は、11月27日には熊見川を渡って、あたりに火を放ちながら上月城へ向かい、途中で黒田官兵衛竹中半兵衛に福岡野城を攻撃させました。

この羽柴軍の動きに対し、宇喜多軍は赤松政範を上月城へ派遣しましたが、秀吉軍は上月城に対して鹿垣を用い三重に取り囲んで攻めかかり、12月3日には赤松政範を自害させ、上月城主・上月十郎景貞の首を挙げたうえ、城中にいた約200の女子供を串刺しまたは磔にし、上月城には尼子勝久と山中鹿之介を入れて守らせました。

《合戦の内容》
その翌年1578年(天正6年)4月中旬に毛利・宇喜多の軍勢3万が、安芸から駆けつけ上月城を包囲しました。

秀吉は、反旗を翻した別所氏の籠る三木城を攻めていましたが、一旦攻撃を中止し荒木村重らと共に上月城を救うべく、上月城近くの高倉山に陣を構えました。

三木城に兵を残してきた秀吉軍の兵力は約1万で、その後に加わった織田信忠をはじめ佐久間信盛滝川一益などの軍勢を加えても毛利軍には到底及ばず、にらみ合いを続けるのみで、上月城に籠る尼子勝久や山中鹿之介らが弱っていくのを指をくわえて見守るしかありませんでした。

秀吉は戦況の報告のために5月24日、竹中半兵衛を信長の下へ遣り、続いて自らも6月16日に京都の信長のもとに伺候し、中国における戦況を報告しました。

報告を聞いた信長は、時間のみ掛かって実際に助けることが困難な上月城は見捨て、神吉・志方へ兵を進め三木城を攻めることを命じました。

毛利軍は、21日上月城への総攻撃を開始しましたが、秀吉は信長の命に従い26日に高倉山の陣を払って書写山に戻り、その翌日には信忠と共に別所方の神吉城を攻めました。

信長に見捨てられた上月城は、これ以上の抵抗が無意味であることを悟り、毛利軍に降伏を打診しました。

毛利氏は、上月城の尼子勢に対し勝久が自害すれば他の将兵に害を加えないと伝え、勝久と通久の兄弟は鹿之介との相談の結果、7月3日毛利氏に開城する旨を伝え、自害して果て、これにより、出雲の名門である尼子氏は完全に滅亡しました。

尚、鹿之介も囚われて安芸に送られる途中、備中の甲部川の渡し口で護送役の河村新左衛門に切られてしまいました。

《合戦の結果》
毛利氏は、上月城を落とした後、織田氏との全面戦争に突入し、荒木村重が7月に織田氏に反旗を翻して石山本願寺に味方し、さらに播州小寺政職織田氏から離反すると、播州における毛利氏の勢力は大いに回復されました。

しかし毛利軍は元就の残した遺言に従い積極的な攻勢には出ずに、あくまでも守りの姿勢を崩さず、味方に対しての支援活動に終始しました。

そんな中、11月に第二次木津川口の戦いにおいて毛利水軍織田氏の鉄甲船を含む水軍に大敗し、そのうえ宇喜田直家が1579年(天正7年)10月に離反するなどしたため、毛利氏の勢力は大きく後退し、併せて荒木村重がと小寺政職が滅ぼされ、さらに長年織田氏を苦しめた本願寺門徒衆が信長と和睦し、石山の地を離れることによって信長包囲網は崩壊したため、毛利氏は単独で信長との戦いを強いられていきました。