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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

織田信長が信貴山城の逆臣・松永久秀を攻めた「信貴山城の戦い」

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奈良県生駒郡平群町
●1577年(天正5年)
織田信長(不明)VS松永久秀(不明)

《合戦までの経緯》
北条早雲・斉藤道三とともに戦国時代における梟雄といわれた松永久秀は、主家である三好長慶に家宰を任されていましたが、長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、京都における実権を握り、翌1565年(永禄8年)5月19日には三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)と共に京都の御所に攻め入り、将軍である足利義輝を自害に追い込みました。

そんな久秀も、織田信長が1568年(永禄11年)に足利義昭を奉じて上洛すると、信長に対して従う旨を申し入れて、その後は信長に従って石山本願寺との戦いに従軍してしました。

しかし信長と接する中で、信長の持つ強引なやり方に不安を抱いた久秀は、1571年(元亀2年)5月信長に対して反旗を翻し、足利義昭の働きかけによって出来上がった、上杉や北条、本願寺門徒雑賀衆らとの信長包囲網に加わりました。

久秀は摂津や河内にて大いに猛威を振るいましたが、最終的には信長によって鎮圧され、将軍・足利義昭は追放、久秀は許されたものの、大和の支配を信長の腹心・塙直政に取って代わられました。

信長が包囲網に苦しみながらも、着実に勢力を伸ばし、続いて中国地方を勢力下に治めようと、中国の雄・毛利元就との対決に着手しようとしていました。

そんな中、久秀は1577年(天正5年)8月、石山本願寺に立て籠って、毛利氏から武器や食糧も順調な補給を受け、いまだに強力な軍事力を持つ本願寺顕如ならびに2万の軍勢を率いての上洛を目指している上杉謙信と共謀し、信長に対して再び謀反を起こしました。

石山本願寺攻めに参加し、摂津天王寺の付城を守っていた松永久秀・久通の親子は8月17日この砦を引き払って大和の信貴山城に籠城し、信長の来襲に備えました。

その報に接した信長は、最初信じられず、松井有閑を信貴山城へ遣って謀反の理由を確認させました。このことは1度だけでなく2度も裏切ったものに対して異例の対応でしたが、久秀はこの信長による説得に対してはっきりと拒絶したため、信長は怒り久秀が人質として差し出していた二人の子供を京都の市中を引き回した上、六条河原で斬刑に処しました。

《合戦の内容》
織田信長は、同年10月1日細川藤孝明智光秀筒井順慶に対して、松永久秀に加担する森秀光及び海老名勝正が籠る大和片岡城を攻撃するよう命じました。

この戦いで、細川勢は藤孝の息子である15歳の忠興と13歳の興元を中心に弓矢・鉄砲を駆使して大いに攻め寄せ、約150名の兵を討ち取る活躍を見せ、信長は特に若い両人の活躍に対して感状を与えました。

また一方で、織田信忠も10月1日に安土を出て大和へ向かい、3日には信貴山に到着し城下をことごとく焼き尽くし、信貴山城を包囲しました。

そして信忠は10日の夜、佐久間信盛の子・信栄や羽柴秀吉丹羽長秀に命じて信貴山城へ攻め込ませました。

城に籠る城兵も必死に防戦を試みましたが、衆寡敵せずついに松永久秀・久通親子は天守に火を放ち、自害して果てました。

そのとき信長は、久秀秘蔵の平蜘蛛の茶釜を差し出せば、命を助ける旨を申し入れましたが、久秀は一蹴し、釜もろとも自爆したとも伝えられています。

《合戦の結果》
織田軍は、上杉謙信との戦いである手取川の戦いにて大敗を喫していましたが、今回の信貴山城における戦いの勝利で士気を取り戻したといわれています。

織田信長は、その後羽柴秀吉をして中国征討へ、さらに明智光秀細川藤孝には再び丹波征討へ赴かせ、天下統一に向けて邁進していきました。