【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

六角義賢が浅井と結ぶ織田信長に戦いを挑んだ「野洲川の戦い」

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滋賀県守山市
●1570年(元亀元年)
●六角義軒(不明)VS織田信長(不明)

《合戦までの経緯》
源氏の名門・佐々木氏の流れを汲む六角義賢・義治の親子は、居城である観音寺城を拠点として南近江を勢力圏としていましたが、信長が入洛するとの報に接すると、三好三人衆と手を結んでいる及び自身の名門意識も手伝い、信長の上洛を良しとすることが出来ず、自らは観音寺城に籠り、さらに箕作城や長光寺城などの支城に兵を入れて信長との戦いに備えました。

兵5万を率いた信長が、1568年(永禄11年)9月に近江に侵攻し、観音寺城及び箕作城に攻め寄せると、箕作城は1日で落城し、観音寺城にいた義賢と義治は夜のうちに城を抜け出し、甲賀へ落ちて行きました。

六角義賢はその後、拠点を石部城や三雲城、湖東にある鯰江城など転々と変えながら、九代将軍の足利義尚が1487年(長享元年)9月に六角討伐へ攻め込んだ際、六角高頼がとった作戦「引き込み戦法」を見習って、一揆衆を煽動し、信長に対するゲリラ戦を展開していました。

その後、足利義昭を奉じて上洛した信長は越前の朝倉義景に対し、上洛するようが要請しますが、義景はその要請をかたくなに拒否したため、信長は1570年(元亀元年)4月末に、越前の朝倉氏討伐に出陣しました。

しかし過去に朝倉氏より援助を受けて恩がある江北の浅井氏は、信長の妹であるお市を娶り、信長の盟友となっているにも関わらず、信長による朝倉氏討伐を受けて反旗を翻すことを決意し、信長に対して兵を挙げました。

朝倉勢と浅井勢によって前後を挟まれた信長は、近江の朽木谷を経由し京へ逃げ帰り、さらにそのまま本拠である美濃へ引き返しました。

甲賀や伊勢において単発的なゲリラ戦を展開していた六角義賢は、この千載一遇の機会を逃さず、長政と結んで信長を倒すべく再び兵を挙げました。

義賢の挙兵によって、本拠の岐阜から京へ通じる道を塞がれてしまうことを懸念した信長は、稲葉一鉄を守山に派遣し、六角氏に味方する国人領主らを打ち払い、琵琶湖の沿岸地域を制圧することに成功しました。

そして柴田勝家を長光寺城に、佐久間信盛を永原城に、さらには中川重政を安土城に入城させ琵琶湖南岸の街道の安全を確保しました。

《合戦の内容》
六角義賢らは鯰江城から5月下旬より甲賀並ならびに伊賀の武士団を中心とした数千の兵力をもって草津方面に進出し、6月4日に先陣を三雲成持、高野瀬秀澄、永原遠江守軍として野洲川の左岸にある笠原に着陣しました。

一方、織田軍は柴田勝家佐久間信盛らが六角勢を迎え撃つべく野洲川の右岸にある落窪に布陣し、あとは戦いの火ぶたが切られるのを待つだけとなりました。

そして始まったこの野洲川の戦いは2~3時間の戦闘をもって織田勢の勝利に終わり、最終的には六角方の三雲定持・成持、高野瀬秀澄、永原賢宗ならびに甲賀や伊賀衆780人が討ち死にするという六角方の完敗に終わりました。

《合戦の結果》
その後6月には、柴田勝家横山城に、さらにその翌年の2月には丹羽長秀佐和山城に入れて、南近江における織田氏の支配基盤をさらに強固なものとしました。

六角義賢の方は、甲賀の青木石部を頼ってその居城・石部城に立て籠もりましたが、1574年(天正2年)佐久間信盛によって攻められ、再び甲賀山中に逃れました。

六角方に仕えていた国人衆らは、野洲川の合戦後、次々と信長の家臣になり、六角義賢も最終的には信長のもとへ三上越後守恒安を遣わし降伏の申し入れを行いました。