【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

土佐統一を目指す長宗我部元親が安芸氏と対決「安芸城の攻防戦」

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高知県安芸市
●1569年(永禄12年)
長宗我部元親(5千)VS安芸国虎(7千)

《合戦までの経緯》
長宗我部氏と長年にわたって領土をめぐる戦いを繰り広げていた安芸氏の祖は、672年の壬申の乱で敗れたのち、土佐へ流された左大臣蘇我赤兄だといわれています。

その安芸氏は律令制度のもと、各郡に設置された長官である大領という職を代々歴任し、東土佐において確固たる地位を築いてきました。そして戦国時代に入り安芸国虎が当主の座に着くと、安芸氏の勢力は大いに広がりました。

その国虎は1563年(永禄6年)に長宗我部氏の居城・岡豊城に奇襲攻撃を仕掛けました。というのも長宗我部氏はそのころ土佐の本山氏を攻略中で、土佐の中央部をほぼ勢力下に治めつつあり、その後は安芸氏へ向かってくるのは火を見るより明らかで、悪い芽は早めに摘み取っておこうという気持ちからでした。

安芸氏は、長曾我部氏が本山氏との戦いで兵が出払っており守りが薄い岡豊城に対して5千の兵を二手に分けて攻めかかりました。

安芸勢によって岡豊城は大手門を集中的に攻められ、一時は落城の一歩手前の状態まで追いつめられましたが、吉田重俊が夜須城より救援軍を率いて駆け付け、国虎率いる安芸勢の背後から襲い掛かったため、何とか凌ぎきることが出来ました。

その後、中村の一条氏が仲介の労を取って長宗我部氏と安芸氏は和議を結ぶことになりました。それを受けて1569年(永禄12年)4月に長宗我部元親が国虎へ使者を出して岡豊城まで出向いてもらいたい旨を伝えました。

しかし、もともと国虎は元親に対して同等もしくはそれ以上と考えていたため、使者から口上を聞いた国虎は、盟約を結びたいのであればせめて国境で会って話し合いをするべきところ、呼びつけるとは何事か、と怒って長宗我部家との絶縁を宣言しました。

このような経緯により、両者は一触即発の状態となり、長宗我部勢がいつ攻め込んでくるかわからないため、国虎は安芸城に兵を詰めさせて、長曾我部氏との戦いの用意を整えました。

《合戦の内容》
長宗我部元親は1569年(永禄12年)7月、7千の兵と共に岡豊城を発し、兵を二手に分けて安芸城へ向かって軍を進めました。

一方安芸氏は、城外で戦うことを決め、5千の兵を持って出撃し、矢流にて長宗我部勢を待ち構え、当初は地の利を存分に活かして長宗我部勢との戦いを優勢に進めていました。

しかし元親は、事前に地元の漁師たちに対して、合戦が始まったら、囮として安芸勢の後方の海上からホラ貝を鳴らし、かつ鬨の声を上げるように頼んでおり、実際にそれが行われると、安芸勢は退路を遮断されたと思い、兵が大いに動揺し、崩れ立ちました。

さらに元親の別働隊が、安芸城へ向かったのを知ると、安芸勢は城に残った兵を結集し、城に籠って戦う覚悟を固め、戦いの舞台は安芸城に移されました。

長宗我部勢は安芸勢を追いかけて城に到着すると、城の包囲を固めました。そんな中、国虎は一縷の望みを中村の一条氏の援軍にかけましたが、一条氏は長宗我部氏の軍事力を恐れ、ついに援軍を繰り出すことはありませんでした。

それでも安芸勢は長宗我部勢の猛攻を20日間に渡って耐え続けましたが、8月11日に国虎は自身の命と引き換えに城兵の助命を条件として開城し、浄貞寺にて自刃して果てました。

《合戦の結果》
土佐は安芸氏の滅んだことによって、中央部から東部にかけて長宗我部氏が手に入れたことになりました。

そして長宗我部氏は、土佐の統一を目指し残る一条氏の攻略に取り掛かっていきました。