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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

武田信玄が、駿河に侵攻し今川氏を攻めた「薩埵峠の戦い」

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●静岡県清水市庵原郡由比町
●1568年(永禄11年)
武田信玄(不明)VS今川氏真(不明)

《合戦までの経緯》
今川氏は、織田信長によって1560年(永禄3年)、当主であった今川義元桶狭間にて討ち取られてしまったものの、義元の嫡男である氏真が後継となって、駿河遠江三河に広がる領土を引き継いでいました。

その頃の今川家は、甲斐の武田氏及び相模の北条氏との甲相駿同盟を結んでおり、信長に対して義元の仇討ちが出来る態勢になっていたものの、氏真にはその気持ちも能力もありませんでした。

そんな氏真を最初に見限ったのは徳川家康で、1562年(永禄5年)独立し、その2年後には今川氏に属していた吉田城を攻略し、徳川氏三河全土を手に入れることに成功しました。

そんな氏真に業を煮やした家臣団の一部が三河徳川氏や甲斐の武田氏へ内通し、今川氏は内部から崩れていきました。

さらに甲斐の武田氏もこの好機を放っておくことはせず、もともと山に囲まれた甲斐を本拠とする武田氏にとって喉から手が出るほど欲していた海に面した駿河へ攻め入ることを決めました。

ただ、そんな武田家内に、信玄の嫡男・義信を中心とした駿河侵攻に反対するグループが存在しました。というのも義信は今川義元の娘を妻にしていたからです。

しかしながら1564年(永禄7年)、信玄は義信を幽閉し、その他の主立った反対派を粛清してまでも駿河侵攻を行いました。

《合戦の内容》
武田信玄駿河への侵攻を開始する前に徳川家康と、駿河武田氏が、遠江徳川氏がそれぞれ手に入れるという約束事を交わし、1568年(永禄11年)12月6日、駿河へ向けて兵を進めました。

一方で今川氏真は、武田が同盟を破棄して駿河へ侵攻してくるという情報を入手すると、重臣である庵原安房守に兵1万5千の兵を与えて、東海道の要衝であり甲斐から今川家の本拠である駿府へ侵入してくる武田軍を迎撃するのに最適な薩埵峠へ向かわせました。

しかし戦の趨勢は始まる前にすでに決まっていました。というのも今川勢の中では今川家の前途に絶望した多数の兵が武田氏へ内通しており、薩埵峠の戦いでは小競り合い程度の戦いの後に、今川勢は総崩れとなって駿府に向かって敗走していきました。

氏真は駿府へ逃げ帰ったものの、駿府で態勢を立て直すことは不可能とみて、そのまま掛川城へ落ち延びて行きました。

《合戦の結果》
氏真は兵2千と共に、今川家に対して忠誠を貫く朝比奈泰朝が守る掛川城に向かい、たどり着いた時には付き従う兵が100にまで減っていました。

そんな中でも泰朝は徳川勢の攻撃を必死に防ぎ、12月下旬から徳川勢に掛川城を囲まれたものの、4ケ月以上も城を守り続けました。

その間、武田勢は今川勢の救援に駆け付けた北条勢と薩埵峠にて戦いを繰り広げていました。

武田勢が駿河に侵攻し、駿府の町へ攻め入った際、氏真へ嫁入りしていた北条氏康の娘は輿にも乗ることも出来ず、雑兵たちと一緒に逃げ惑ったことを聞いた氏康は激怒し、武田氏との同盟を破棄したうえ、過去敵対関係にあった上杉氏と同盟を結ぶことになりました。

さらに徳川氏においても、武田氏が事前の密約に背いて遠江まで兵を進めたことに対して不信感を持ち、武田氏に無断で今川氏と単独の講和を結び、その際掛川城を手に入れ、氏真は北条氏ももとへ落ちていきました。

そんなことどもにより、信玄は念願かなって海に面した駿河を領地に加えることが出来ましたが、四面楚歌の状況に陥ってしまいました。

しかし、外交にも長けている信玄は、その後状況を好転させて上洛の準備を整えていきました。