【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

大友宗麟が反逆者・高橋鑑種を討伐「岩屋城・宝満城の攻防戦」

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●福岡県太宰府市
●1567年(永禄10年)
大友宗麟(2万)VS高橋鑑種(不明)

《合戦までの経緯》
大友宗麟は、筑前の高橋氏に後継ぎがなくお家の断絶危機に陥った際、この家が途絶えることを惜しんで、武勇に優れている武将で宗麟からの信頼も厚い一万田家出身の鑑種を後継ぎとして送り込みました。

高橋家の家臣たちからも、もろ手を挙げて迎えられた鑑種は、宝満城と岩屋城及び三笠郡2千町歩を与えられ筑前の経営を任されました。

しかしながら宗麟は鑑種の兄である、一万田親実を殺しただけでなく、その妻を自身の側妾としたり、さらにはキリスト教の洗礼を受けて華美な生活にうつつを抜かしているなどの理由から、鑑種は宗麟に対して心からの忠誠は誓っていませんでした。

そんな中、中国地方の雄である毛利氏が、大友氏の勢力を削ぐため、大友氏に与している国人衆に対し調略の手を伸ばしており、もともと宗麟に対して含むものがあった鑑種は毛利氏の誘いに応じて宗麟に対して反旗を翻しました。

《合戦の内容》
高橋鑑種の基本方針は籠城戦で、そのために必要な武具や食料を十分に用意し、戦いに備えました。大友宗麟は次々に入ってくる鑑種に謀反の意思があるという報告に対して当初は信じることが出来ませんでした。

そして宗麟は一度噂を確認するため、鑑種のもとへ家臣を送り込みましたが、鑑種が何も答えずに追い返してしまったことによって謀反を確信し、戸次鑑連や臼杵鑑速、吉弘鑑理、斎藤鎮実ら兵2万をもって鑑種による謀反の鎮圧に向かわせました。

鑑種方では、宗麟からの討伐隊が来ることを知ると、秋月種実や龍造寺隆信に使いを出し、この誘いに応じた秋月種実は1567年(永禄10年)4月上旬に、また龍造寺隆信も6月に呼応しました。

これらの動きに合わせるように毛利氏でも宗像氏貞や筑紫惟門・鎮恒親子、さらには原田隆種・親種親子に働きかけ大友氏に対して挙兵させました。

大友方では1567年(永禄10年)7月、臼杵鑑速がまずは鑑種の居城である宝満城の西方にある出城・岩屋城に攻めかかりました。岩屋城は足達兵部が兵2千と共に守っていましたが、大友氏による攻撃に持ちこたえることが出来ず、足達兵部ほか、ほとんどの兵が討ち取られました。

他方、戸次鑑連と吉弘鑑連の軍勢は、宝満城に対して兵を進め、城を囲んで表側と裏側から城に対して攻撃を加えました。

しかし、鑑種はよく持ちこたえ60日経っても城は落散る様子もなく、逆に攻め手の被害が拡大したことから、大友軍は一旦城攻めを中止して撤退を余儀なくされました。

《合戦の結果》
1569年 (永禄12年)に山陰で尼子残党が挙兵したことにより毛利勢が九州から撤退し、後ろ盾を失った高橋鑑種は、大友軍に降ることになり、ついに宝満城は落城となりました。

宝満城の城主である高橋鑑種はこの後、一命を許されましたが家督を奪われ小倉に追放されることになり、高橋家は吉弘鑑理の子である高橋紹運が継ぐことになりました。

その後、1586年(天正14年)に薩摩の島津氏が勢力を拡大し、北上して大友氏の領地へ攻め込んでくると、岩屋城には高橋紹運、宝満城には紹運の次男で、かつ筑紫広門の娘婿の高橋統増が、筑紫氏の家臣を引き連れて籠城しました。

島津勢に対して激しい籠城戦を行った結果、岩屋城は落城し、城に籠っていた高橋紹運及び籠城していた兵100のほとんどが討ち取られました。

また宝満山城についても島津氏の降伏勧告により開城の憂き目を見ることとなりました。