【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

北条氏康と里見義弘が激戦を繰り広げた「国府台の戦い」

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●千葉県市川市
●1564年(永禄7年)
北条氏康(2万)VS里見義弘(8千)

《合戦までの経緯》
房総において小弓城を拠点として勢力を伸ばしている原氏と対決するため、庁南城主・武田氏ならびに真里谷城主・真里谷氏は、反原連合をまとめるべく小弓公方足利義明を盟主として祭り上げられました。

その足利義明という人物は、古河公方である足利政氏の次男で、出家して空然と名乗っていましたが、父である政氏と長兄の高基が骨肉相食む戦いを繰り広げていたため、難を逃れて奥州黒川の蘆名氏のもとに避難していましたが、還俗させられ義明と名乗っていました。

武田氏と真里谷氏、里見氏の連合軍は1517年(永正14年)、義明を総大将として小弓城へ攻め寄せ、2日間にわたる激戦の末、小弓城を落としました。

連合軍は、その小弓城を修築して義明の御所とし、その後小弓公方として房総周辺の支配を確固なものにすると、義明はいつしか古河公方を凌駕して関東に威を張るという欲望を抱きはじめました。

他方、義明の兄である古河公方の高基が1535年(天文4年)に亡くなったため、嫡男である晴氏が跡を継ぎました。その晴氏は自身の地位を脅かす叔父の義明を疎ましく感じ、妻の父にあたる北条氏綱からの援軍を得て義明を討つべく兵をあげ、房総に攻め込みました。

足利晴氏・北条氏綱の連合軍は1538年(天文7年)10月、足利義明と房総の国人衆の連合軍と下総国府台において戦いを繰り広げ、この戦いによって総大将である義明をはじめ多くの兵が討ち取られるという大敗を喫してしまいました。

その敗因となったのは里見義尭だといわれています。というのも、安房稲村城主の義尭は上総の真里谷氏の領地を攻め取りたかったが、小弓公方である足利義明の配下でいる以上それは出来ず、そのため義明の存在が疎ましくなって苦戦を強いられていた義明を見捨てて撤退したのです。

義明の死後は、小弓公方の権威も地に落ちて、かわりに里見氏が威勢を持ち始めました。このことによってその後の房総において里見氏と北条氏との戦いが繰り広げられることになったのです。

その里見氏は久留里城に居を構え、上総から武田氏の勢力を排除し、1540年(天文9年)房総のほとんどを勢力下に収めました。

一方北条氏も房総半島にまで勢力を伸ばしてきたため、里見義尭の嫡男である義弘が越後の上杉氏や岩付城主・太田資正などと協力し、陸だけでなく海軍を駆使して三浦半島や鎌倉まで出張って北条氏と戦っていました。

《合戦の内容》
そんな中、里見義弘は6千の兵を率い、北条氏との決着をつけるために、2千の太田資正軍と共に国府台にて北条軍2万との決戦に臨み、1564年(永禄7年)1月8日に対決しました。

江戸川を天然の堀として活用した里見軍は、序盤は優位に戦闘を進めていきましたが、北条勢が江戸川を渡河し、里見勢の側面から攻撃を開始すると、一気に形勢は逆転し兵力に勝る北条勢が里見勢を圧倒し始めました。

ついに義弘は敗走に移り、里見家に伝わる宝刀を失うほど身に危険が迫る中、命からがら久留里城へ逃げ戻りました。

《合戦の結果》
この敗戦は里見氏の威望を一気に失墜させ、房総の多くの諸将は北条氏に寝返ることとなりました。

また義弘が1578年(天正6年)に病気で亡くなると、後継を巡ってお家騒動が起こり、里見家の勢力が大いに減退し、安房一国と上総の一部のみとなりました。

その後、秀吉の小田原攻めの際に、義弘の孫である義康が参陣したものの、上総を没収され、安房一国のみを安堵されることになりました。