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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

毛利元就が中国地方の覇権を握った「第二次月山富田城の攻防戦」

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島根県能義郡広瀬町
●1563~66年(永禄6~9年)
毛利元就(3万5千)VS尼子義久(1万2千400)

《合戦までの経緯》
中国地方の雄である尼子氏を倒すため着々と準備を進めていた毛利元就は、力攻めすることはせず、得意の調略によって尼子氏の勢力を弱める方針をとりました。

元就は、自身も過去に苦汁を飲まされた、尼子の軍勢の中でも最強を誇る尼子家の当主・尼子晴久の叔父国久が率いる精鋭3千の新宮党を除くための策を練りました。

元就は、新宮党が尼子氏を裏切って毛利に付くという噂を、尼子陣営のなかで広めところ、最初は歯牙にも掛けなかった晴久も次第に噂を信じるようになり、1554年(天文23年)11月1日晴久は国久・誠久の親子を謀殺してしまいました。

狙い通り新宮党を葬り去った元就は、陶晴賢厳島にて討ち果たした後、周防と長門の掃討を進める一方、今後の勢力拡大のための財源として狙っていた大森銀山を手に入れるため、石見の攻略に着手しました。

元就は大森銀山にある山吹城を、これも得意の調略により山吹城主・本城常光を謀殺することによって1562年(永禄5年)に奪取したものの、そのやり方に反感を抱いた国人衆を尼子方に走らせる結果となり、月山富田城の西方の宍道湖・洗合まで進めていた本陣を赤穴まで下げざるを得ない状況に陥りました。

その後、12月10日に再度洗合に着陣し、当主が義久に代わった富田城の支城である白鹿城攻めに取り掛かりました。

実際に城攻めに取り掛かったのは翌年8月13日で、攻め手の毛利軍1万5千に対し、守り手は白鹿城主・松田誠保とその兵1000と富田城からの援軍の牛尾久清800でした。

白鹿城は80日間良く持ちこたえたものの、蓄えていた兵糧も尽き、富田城からの救援も上手くいかず1563年(永禄6年)10月29日、ついに降伏に至りました。

白鹿落城後も、元就は短兵急に富田城を攻める事はせず兵糧攻めの策を取り、同時に尼子方の国人衆へ調略を仕掛け、さらに唯一の糧道であった但馬・因幡方面から海上を通る道も封鎖し、富田城を孤立させていきました。

《合戦の内容》
1565年(永禄8年)4月17日、元就は富田城への兵糧攻めの効果が出てきたと見るや、本陣を星上山に移し3万の軍をもって1万の兵が籠る富田城に対して総攻撃を仕掛けました。

しかし元就の予想に反して、尼子方の士気はまだまだ高く、毛利軍は攻撃を途中で断念し、28日には兵を洗合あまで戻しました。

その5ケ月後の9月20日、毛利軍は再び富田城に対して総攻撃を仕掛けましたが、富田城の兵は兵糧が足りず弱っているものの、海抜184mに位置する堅牢なつくりのその山城を尼子軍はよく守り、飯梨川を渡って攻めてくる毛利軍を何度となくはじき返しました。

元就は力攻めでは、自軍の損害が大きくなることを恐れ、調略へと方針を転換し、当初兵糧を減らすために投降を認めていなかった城内の兵に対して投降することを認め、さらに宇山久信が毛利に通じているという噂を流し、1566年(永禄9年)正月に義久自ら謀殺させるなどの手をうちました。

このような状況においても尼子軍はその後11ケ月間、何とか踏ん張り続けましたが、尼子方の主立つ家臣を集めての軍議の結果、1556年(永禄9年)11月28日に開城することを決めました。

《合戦の結果》
元就は、尼子氏を滅ぼしたことにより、中国地方の覇権を握ることに成功するものの、5年後に1571(天亀2年)6月14日、75歳で戦いに明け暮れた人生に幕を下ろしました。

一方、晴久は一時囚われの身となりましたが、その後許されて毛利氏の家臣となっています。