【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

大友宗麟が毛利氏の急襲侵攻を妨げた「門司城・立花城の攻防戦」

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●福岡県北九州市
●1561年(永禄4年)、1566年(永禄9年)
大友宗麟(1万5千)VS毛利元就(1万8千)

《合戦までの経緯》
下剋上と呼ぶにふさわしいクーデターによって陶晴賢大内義隆を屠り、1551年(天文20年)豊後の大友宗麟の弟である晴英(後の大内義長)を大内家の当主として迎え入れ、防府長門・安芸・石見、さらには九州の筑前を手に入れました。

しかしその4年後に毛利元就が、栄華を誇ったその晴賢を厳島で自刃に追い込み、さらにその2年後である1557年(弘治3年)には義長を攻め滅ぼしました。

義長を降したのち、元就は海峡に突き出した場所に位置する門司城を足掛かりに、北九州のへ勢力を伸ばし、大友氏と北九州の覇権を巡って戦いを繰り広げることになりました。

《合戦の内容》
宗麟は1561年(永禄4年)、2年前毛利氏に奪われた門司城を奪還するため、門司城の西方にある小倉城に1万5千の兵を集結させ進軍を開始しました。

まず、豊後の府内に停泊していたポルトガル船数隻を動員し、海から毛利軍の守る門司城に向かって砲撃を開始し(ポルトガル戦団はある程度の砲撃を加えたのち、なぜかこの戦闘区域を離れ、いずれかへ去ってしまいました)、この砲撃で門司城の毛利軍は大いに士気を下がることになりました。

元就は、ポルトガル船団からの砲撃の情報を聞くと、すぐに嫡子・隆元と小早川隆景を救援に向かわせ、隆元を防府の本陣に据え、前線での指揮は小早川隆景にとらせることにし、まず堀立壱岐守と豊前の守護代である杉氏の兵を上陸させたうえ、大友軍による包囲を掻い潜って門司城へ入城させ、さらに安芸の河内水軍に豊前や筑前の沿岸地帯を襲わせました。

大友軍の方では、門司城の南に豊前沼に陣を敷いていた毛利軍を破り、門司城に迫りましたが、逆に毛利方の村上武吉は率いてきた伊予の村上水軍を安芸水軍と連携させ、門司海峡に上陸し大友軍をかく乱するなど双方一進一退の攻防を繰り広げました。

そんな中、小早川隆景は門司城に入城し全軍の指揮をとると、その門司城へ10月10日に大友軍は総攻撃を仕掛けました。

この総攻撃を受けて、防府の本陣にいる隆元は浦宗勝並びに児玉就方に対して海峡を渡り、大友軍の背後から攻撃を加えるように指示を出しました。

浦らの襲撃を受けた大友軍は総攻撃の継続を断念し、退却を開始しましたが、毛利軍の追撃のために大打撃を受けることになりました。

しかし、宗麟は持ち前の外交能力を発揮し、出雲の尼子と同盟を結び、毛利氏を背後から牽制させることに成功し、毛利氏と和議を結んで九州から撤収させました。

その5年後の1566年(永禄9年)、毛利元就は尼子氏を滅亡に追い込み、後顧の憂いを無くすと再び九州へ目を向けました。

元就は北九州の龍造寺や高橋、秋月と結び大友に対して兵をさせ、宗麟はその対応に苦しみましたが、1568年(永禄11年)11月、大友氏に反旗を翻した立花城の立花鑑戴を降し、立花城を取り戻すことに成功しました。

しかし、喜びもつかの間、立花城はすぐに毛利軍に包囲され翌年5月に毛利軍の手に落ち、毛利軍はさらにその勢いを駆って博多まで攻め込みましたが、大友軍はなんとか撃退しました。

《合戦の結果》
大友宗麟は、1568年(永禄11年)10月、大内氏の再興させるため、自身の手元にいた大内輝弘を総大将とする軍勢を本土に向かわせ、手薄になった元就の本拠地に攻め込ませるという策に打ってでました。

驚いた元就は北九州にいる吉川元春小早川隆景を急遽呼び戻し、その後1571年(元亀2年)に元就が亡くなると、毛利氏は九州から完全に手を引きました。