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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

朝倉義景が本願寺門徒を撃退し越前を守った「大聖寺の戦い」

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●石川県加賀市
●1555年(弘治元年)
朝倉義景(1万)VS加賀本願寺門徒(数万)

《合戦までの経緯》
1488年(長享2年)6月に加賀の国の守護である富樫政親が本願寺門徒一揆勢に攻め滅ぼされた後、加賀の国は本願寺門徒によって約100年の間支配され、世間では百姓の持ちたる国といわれていました。

そんな加賀の国を支配下に組み込んだ本願寺門徒は、能登越中にも勢力を拡大していましたが、本願寺門徒が本当に手に入れたかったのは越前の吉崎御坊でした。

というのも吉崎御坊は、浄土真宗本願寺派の中興の祖である蓮如上人が北陸において布教を行うために開いた一大拠点であり、北陸地区における本願寺門徒にとっての聖地であったからです。

その吉崎御坊のある越前を治めていたのは越前の守護・朝倉氏で、当初は吉崎御坊に対して寄進を行うなど本願寺門徒に対して友好的であったが、本願寺門徒が勢力を伸ばし、力をつけ、加賀を完全に支配下に置いて、百姓の持ちたる国と呼ばれるようになってくると、越前の守護大名である朝倉氏としては、自身の地位が揺るぎかねない事態が考えられるため、徐々に双方の関係が悪化し、お互いに対決の姿勢を打ち出していきました。

そんな中、加賀の本願寺門徒は1506年(永正3年)7月、越中能登・越前の門徒を含む総勢30万の軍勢を催し、本願寺門徒の聖地である吉崎御坊を奪い取るべく、朝倉氏が治める越前へ向かって兵を進めました。

その報を受けた朝倉貞景は、朝倉一族の中でも指折りの戦上手である朝倉宗滴に対して総大将を命じ、九頭竜川を挟んで本願寺門徒を迎え撃つことになりました。

本願寺門徒30万に対して、朝倉軍は1万といったように兵力にかなりの差があったものの、所詮本願寺門徒は戦に関しては素人の集団であり、いうなれば烏合の衆でした。

朝倉勢は兵力が圧倒的に少ないながらも果敢に九頭竜川を押し渡り、本願寺門徒勢に切り込んでいったところ、朝倉勢の攻撃を受けた本願寺門徒勢は持ちこたえることが出来ず、我先にと潰走を始めました。

この戦ののち、朝倉氏は本願寺門徒に対する弾圧を強め、吉崎御坊や他の本願寺宗派の寺院を次々と破壊していきました。

《合戦の内容》
九頭竜川での戦いの後も、本願寺門徒との戦いを継続していた朝倉氏は、1555年(弘治元年)ついに朝倉宗滴を総大将として、北陸の本願寺の本拠地である加賀へ攻め込みました。

そして朝倉勢は7月23日、加賀の大聖寺の近郊で本願寺門徒との戦を開始し、序盤戦は朝倉勢が戦いを優位に進めていきました。

そんな中、朝倉勢の総大将である朝倉宗滴は78歳という高齢でいうことも手伝い、病に倒れてしまいました。

一手で本願寺門徒との戦を取り仕切っていた宗滴を失ってしまった朝倉軍は、本願寺門徒に対して戦を勝ち切ることが出来ませんでした。

その後、宗滴は越前に戻ったのち、病没してしまいました。

《合戦の結果》
結局、本願寺門徒と朝倉氏は1567年(永禄10年)に、流浪の身であった将軍・足利義昭の仲介をうけ、両者ともにこのまま不毛な戦いを継続していくことがお互いにとって不利益であることを考え、双方で共存共栄していくことに決めて、和睦を受け入れることになりました。

その後、中央で力をつけてきた織田信長による越前への侵攻が1570年(元亀元年)4月に開始され、7月には本願寺門徒と信長が全面的に抗争状態にはいると、朝倉氏も本願寺門徒に加勢して仏敵の織田信長との戦いに突入し、織田信長包囲網の一翼を担うことになりました。