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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

三好長慶が細川晴元を破り畿内の実権を掌握した「江口の戦い」

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大阪市
●1549年(天文18年)
三好長慶(3千)VS細川晴元(3千)

《合戦までの経緯》
三好長慶は細川晴元のために摂津や畿内を縦横に転戦していましたが、そのさなか、三好家における政長と長慶の家督争いが再び勃発しました。

もともと政長が晴元寄りだったため、長慶は必然として晴元に敵対する細川氏綱や畠山政国をはじめ茨木長隆に代わる盟主を求めていた摂津衆と手を結ぶことになりました。

そんな中、晴元は池田城主・池田長政を氏綱方に寝返った罪によって詰め腹を切らせたため、池田城内は晴元派と長慶派に別れることになり、その結果8月に長慶派がクーデターによって晴元派を城外へ追放するという事態に発展しました。

この事件によって、長慶は晴元に対抗する旗幟を鮮明にすると、それを受けて晴元方の政長が1549年(天文18年)1月に丹波から池田氏に侵入し、池田市街を放火するという挙に出ました。

長慶は2月21日に越水城を発し、晴元方の伊丹城へ攻めかかり、城下を焼き払って、そのまま堺へ向かい、遊佐長教と打ち合わせを行い、兵を出すための段取りを整えたのびのち、26日には主力軍を尼崎へ、またそれに呼応して長教や畠山政国も兵を十七ケ所に集めて戦いに備えました。

2月末に長慶は、氏綱の従兄弟である細川晴賢の居城である中島城を攻め落として入城すると、3月1日長慶の進軍を知った政長が、晴賢と共に籠城していた柴島城の南西の浜に出撃し、長慶軍を迎え撃ちましたが、逆に打ち破られたため淀川を越えて榎並城へ退却・籠城し、近江の六角氏からの救援を待つことにしました。

長慶が中島城で京都を含む畿内の情勢を眺めている間、晴元は1549年(天文18年)4月下旬に京都を離れ、多田一庫城で塩川氏の兵を借り受けて、池田や伊丹、越水の城下を焼き討ちしました。

《合戦の内容》
晴元はその後、5月28日に伊丹親興の援助を受けて一庫城から三宅城へ移りましたが、その時点で晴元側の勢力は伊丹・三宅・榎並にそれぞれ分断されていました。

一方、榎並城で籠城していた政長は六角氏の救援を待ち切れず、6月11日に3千の兵を率いて出陣し、淀川を越えて摂津江口の里に陣を敷きました。

長慶はまず、弟である十河一存と安宅冬康の淡路衆によって江口の里と三宅城の間を遮断させましたが、一存が抜け駆けを行い兵300を率いて三宅城を攻撃、ことここに至って長慶は引きずられるようにして江口の里への攻撃を開始しました。

三宅城から引き返してきた一存と共に江口の里を攻めましたが、思ったより守りが固く、すぐに落とせそうにないため、包囲して兵糧攻めにする方針に切り替えました。

長慶は、近江の六角軍が政長の救援に駆け付ける前に総攻撃を仕掛けましたが、城方である政長軍は空腹のため戦意も乏しく、長慶軍による攻撃に耐えきれず、天竺弥六や高島長直ら衆徒約880人が討ち死にするという敗け戦となりました。

《合戦の結果》
政長は戦場を脱し、榎並城へ逃げ帰るため鎧を脱いで淀川を泳ぎ渡って南岸に上陸する際、遊佐長教の足軽兵に見つけられ、その場で首をはねられてしまいました。

また榎並城に残っていた政長の子である政勝は河原林政頼のもとへ落ち延び、さらに三宅城にいた晴元は京都へ戻ったものの、その後前将軍の足利義晴と共に近江へ向かって押していきました。

長慶は晴元との戦いに勝ったあと、細川氏綱を擁して1549年(天文18年)7月9日に京へ入りました。畿内の覇権を晴元に代わって握ることを願っていた長慶は、細川氏綱のもと、管領代として畿内の実権の掌握に成功しました。