【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

今川と織田が三河の支配をめぐって戦った「安祥城の攻防戦」

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●愛知県安城市
●1549年(天文18年)
今川義元(不明)VS織田信秀(不明)

《合戦までの経緯》
戦国期では多くの守護大名が没落していきましたが、駿河の今川家においては見事に守護大名から戦国大名へ移行することに成功しました。

その今川家というのは、今川氏親の代に駿河への支配力を強め、さらには遠江東三河へと勢力を伸ばし、氏親の嫡男・氏輝は24歳の若さで亡くなったものの、その弟である義元は亡き兄の意志を継ぎ「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの活躍をして今川家を盤石なものにしていきました。

他方、三河松平氏は、西三河の一豪族でしたが、清康の代に瞬く間に勢力を伸長させました。しかし1535年(天文4年)その清康が尾張織田信秀との戦いのため守山へ出陣をしていた際、家臣に殺されてしまうという不幸な事件が起こり、それまで三河全土に対して領土を拡張していた勢いが一気に減速しました。

清康の死により、勢力が弱まった松平氏は、東の今川氏と西の織田家に挟まれ、苦しい立場に置かれていましたが、清康の後継である広忠は今川氏に与することによって松平氏を存続させることを決意しました。

この決断によって松平氏織田氏に攻め込まれることになり、1540年(天文9年)岡崎城と共に西三河を押さえておくための要衝であった安祥寺城を失ってしまうことになりました。

さらに松平家の当主・広忠が1549年(天文18年)、またも家臣によって殺されるという不幸が再び松平氏を襲い、その上広忠の生前に今川家への忠誠の証として子の竹千代を駿府へ送る道中、三河田原城主の戸田康光に拘束され、身柄を織田氏に引き渡されてしまうということもあり、これらの出来事によって衰退した松平氏の領地と家臣たちは今川氏の支配のもとに置かれることになってしまいました。

《合戦の内容》
今川氏は松平氏を自身の勢力に加えることによって三河一国を手に入れたものの、織田氏松平氏から奪いとった安祥寺城によって勢力の拡大を図っており、そのために三河の安定がままならないということもあって、事態を打開すべく1548年(天文17年)安祥寺城攻略のために軍を繰り出しました。

一方織田信秀の方でも、今川軍を迎え撃つべく安祥寺城より軍を発し、今川・織田両軍は岡崎の小豆坂で激突することになりました。

小豆坂での局地的な戦いにおいて、今川氏は勝利を収めたものの、安祥寺城の守りが思いのほか固く、城を落とすまでは至りませんでした。

この戦いによって織田氏の西三河に対する支配力は衰え、さらに翌1549年(天文18年)3月、今川氏は再度安祥寺城に攻め寄せ失敗したものの、城方の兵力は少しずつ弱まっていきました。

今川氏は11月8日、満を持して安祥寺城を完全に包囲し、三度目の攻撃を開始、二の丸と三の丸を攻略したところで、城主であり、織田信長の兄でもある織田信広に対して降伏勧告を行い、それに応じた信広の身柄を拘束したうえ、結果的に織田氏の勢力を西へ大きく後退させることに成功しました。

《合戦の結果》
今川氏では織田信広の身柄拘束は、今川氏の軍師である太原雪斎が考えたシナリオだったといわれ、安祥寺城攻略と共に当初のからの狙いのひとつであり、その目的は織田氏にとらわれている松平氏の後継である竹千代を取り戻すことでした。

結果、竹千代は11月10日人質交換によって一旦は岡崎城へ戻されましたが、すぐに今川家に人質として送られ、その後今川義元桶狭間の合戦で討ち死にを遂げるまでの間、松平氏の家臣団を今川氏のために自由に使うため、駿府にて過ごすこととなりました。