【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

畿内で鉄砲を使わない最後の戦いとなった「舎利寺の戦い」

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大阪市
●1547年(天文16年)
●細川晴元(3万)VS足利義晴(2千)

《合戦までの経緯》
管領の細川晴元を廃し、代わりに細川氏綱を据えようと、将軍・足利義晴や河内守護・畠山政国、さらに河内守護代・遊佐長教が反乱を企て、1542年(天文11年)末に氏綱が和泉の境南荘で突如兵を挙げました。

しかし晴元を攻め切れず、翌年8月になって摂津住吉郡の喜連・杭全まで出張ったものの三好長慶に迎撃され和泉へ落ちていきましたが、その後、遊佐長教ら河内衆が氏綱を担いで1546年(天文15年)夏に晴元に対して兵を挙げました。

三好長慶は8月16日に堺へ入りましたが、20日にはその堺が氏綱の軍勢に囲まれてしまったため、戦闘の準備が万全でなかった長慶は、堺の会合衆に調停を依頼し、綱氏と和睦しました。

しかし氏綱や長教は再び堺から天王寺へ北上を開始し、晴元方の大塚城を攻めたのに対し、長慶は尼崎城主の三好政長や四国にいる弟の義賢、安宅冬康らに大塚城救援を命じましたが、摂津衆である池田城主の池田久宗らの裏切りにより軍を進められず、大塚城は翌4日に開城しました。

そのころ晴元は嵯峨方面にいましたが、河内国衆の上野元治が京都に侵入し、さらに将軍・義晴も慈照寺に陣を構えたため、14日に高尾から丹波へ逃れました。

晴元ならびに長慶の度重なる負けに業を煮やした三好義賢は再出陣を決意し、四国勢2万を従え10月22日、堺へ到着しました。

晴元は、早速丹波から長慶の居城・越水城北方の神呪寺に入り、1547年(天文16年)2月9日、畠山新総州と三好義賢率いる四国勢を含む3万に対し摂津にある氏綱・長教方の諸城への攻撃を命じました。

まずは摂津原田城へ攻撃を仕掛けて20日にこれを落とし、さらには三宅城を攻め、3月22日に開城させるなど攻略を進めていきました。

一方、将軍・義晴は晴元との戦いに備え、1546年(天文15年)12月には嫡子・義輝に将軍職を譲り渡し、翌1547年(天文16年)には氏綱に味方することを公言し、手を加えた北白川城へ籠城しました。

《合戦の内容》
その後、京に入り東山に陣を構えた晴元でしたが、一旦摂津へ引き上げ、1547年(天文16年)5月5日、細川之持や畠山新総介らと共に芥川城を攻め、6月26日に城主の薬師寺与一郎を降伏させました。

さらに河内攻めのため7月7日に、細川之持を難波へ、三好義賢を尼崎へ、木沢兄弟の軍を17ケ所へそれぞれ振り分けて陣を構えました。

そして晴元は残った軍勢を率い、岳父である六角定頼を説き伏せて自軍に加え、北白川城に対して7月12日に攻撃を開始し、足利義晴・義輝親子を近江坂本へ追い落としました。

また河内においては、足利義晴方の畠山政国や遊佐長教、細川四郎らは、高尾城を出て西に進軍、対する長慶を中心とした晴元勢は7月21日、榎並城から南へ下り、天王寺東方の舎利寺で両軍が対峙しました。

最初は三好勢の足軽長槍隊が攻撃を仕掛け、双方の槍の数が900本といった勇壮な戦いが繰り広げられましたが、最終的に三好勢の篠原雅楽助ら約50人、雑兵訳100人が討ち死にしましたが、逆に河内勢の三木牛之助ら約400人討ち取って潰走させました。

《合戦の結果》
三好勢は舎利寺の戦いで勝利した後、17ケ所の陣に分かれていた兵を住吉・遠里小野・沢ノ口へ陣を移し、堺を超えてきた四国勢と7月26日に合流して、共に河内へ攻め込みました。

その翌年1548年(天文17年)4月に長慶は六角定頼の斡旋で長教と和睦を結ぶことになりましたが、この戦いによって長慶の軍事力が高く評価されるようになりました。