【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

尼子詮久が背信の毛利元就を攻めた「安芸郡山城の攻防戦」

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広島県高田郡吉田町
●1540~41年(天文9~10年)
●尼子詮久(3万)VS毛利元就(1万2千400)

《合戦までの経緯》
16世紀の始め、中国地方には周防を本拠とした大内氏と、出雲を本拠とする尼子氏の二つの大きな勢力がせめぎ合っていました。

そんな中、新興勢力である毛利氏の後継となった元就は、最初尼子氏に属していましたが、尼子氏が毛利氏の内政に干渉し、元就を排除しようと図ったため、大内氏に鞍替えすることに決め、長男の隆元を人質に送り込みました。

毛利氏に背かれた尼子氏の当主・詮久は毛利氏を討つ決心をし、本拠である月山富田城において、1539年(天文8年)毛利氏を攻めるための軍議が開きました。

その席上で詮久の叔父である下野守久幸や祖父の経久は簡単に討てる相手ではないと出兵に反対しましたが、詮久は耳を貸そうともせず、翌年の秋に攻め入ることを決めました。

詮久は出陣に先立ち、まず先陣を切って新宮党と呼ばれる尼子国久や誠久、久幸の兵3千が富田城を発ち、安芸郡山城へ向かわせました。

郡山城までは備後道を選び、三次隆信の家臣である中村石見守によって祝星城ならびに五龍城を片付けたのち郡山城へ殺到する予定でしたが、五龍城の宍戸元源の強力な抵抗に遭い江の川を渡河することも叶わず富田城へ帰還しました。

同年8月末、総大将に詮久を据え、兵は出雲・因幡伯耆・美作・備前・石見からの3万を引き連れての出陣し、今回は前回と同じ轍を踏まないよう今回は石見路を通って郡山城へ向かいました。

9月4日に安芸へ到着し、吉田の西北4キロで郡山城を見下ろす位置にある、多治比の風越山に本陣を構え郡山城を攻める準備を整えました。

対する毛利元就は、2千4百の兵とその家族や領民を城内に収容し総勢8千で籠城し、尼子軍の攻撃に耐える一方で大内義隆に援軍を要請しました。

《合戦の内容》
尼子方で兵1500を率いる湯原宗綱は9月26日、毛利方の小早川興景及び大内方で先発隊を任された杉次郎左衛門を攻撃するために坂、豊島方面へ出撃、しかし小早川隊と杉隊による抵抗を受けました。

するとそこへ郡山城から粟屋元良らが出撃し尼子軍を前後から挟み撃ちにされ、撤退を余儀なくされた杉軍は池の内方面へ敗走、そして泥田に馬を乗り入れ身動きできなくなった湯原宗綱は討ち取られてしまいました。

尼子軍は新宮党の尼子誠久を総大将に据え、10月11日多治比川を渡って郡山城へ迫りました。元就はこれを受け全軍を4つ部隊に分けて、そのうちの2隊を伏兵として要所に潜ませ、1隊は城の守備に、残り1隊を率いて尼子の大軍に対して戦いを挑みました。

激しい戦闘が数時間続いた後、飛び出す機会を伺っていた伏兵が、満を持して尼子軍の両側から襲い掛かり、三方から攻めたてられた尼子軍は総崩れとなり、敗走を始めました。

さらに陶隆房を大将とした大内軍の援軍の本体1万が12月3日に到着し、益々戦況は毛利が有利に傾き、ついに1541年(天文10年)1月13日、尼子軍に対して毛利軍の総攻撃が始まりました。

陶隆房による尼子軍の本陣攻撃によって、総大将の詮久が討ち死にの危機に、久幸の決死の奮戦で命拾いするといった激戦で、尼子軍は400、陶軍は470の将兵を失う結果となりました。

《合戦の結果》
尼子軍は、その夜の軍議で出陣後5ケ月経ち、負け戦が続いたことによって士気が下がったこと、さらに寒さの厳しい季節で食糧も乏しくなったことから、出雲への撤退を決意しました。

この郡山城での戦いによって、尼子氏の守護大名としての名声は失墜し、逆に毛利氏は中国地方の統一に向けて大きく踏み出しました。