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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

羽柴秀吉による全国平定のための締めくくり「九戸城の戦い」

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岩手県二戸市
●1591年(天正19年)
●羽柴勢(10万)VS九戸政実(不明)

《合戦までの経緯》
秀吉は小田原城北条氏を降したのち、奥州での太閤検地を行うために、蒲生氏郷ならびに木村吉清に対して奥州の支配する命令を残して、自身は京都へ引き上げていきました。

ただ、小田原攻めに加わらなかったことを理由に、秀吉によって所領を奪われた奥州の葛西氏や大崎氏らの領内において一揆が発生し、同地の新領主である木村吉清の子・秀望は佐沼城で一揆勢に包囲され、その救援に駆け付けた吉清も同城に閉じ込められるという事態も発生しました。

また出羽においては1590年9月下旬に、仙北地方で3万5千人が一斉に蜂起し、由利・庄内にも広がりを見せました。

そんな中、南部氏に属していた九戸政実は、1591年(天正19年)1月、南部氏の当主である南部信直と対立を深めており、櫛引氏や久慈氏、七戸氏らと共に反対勢力を作っていたところに、奥州各地で起こっていた一揆が南部領内でも起こったことを幸いとし、政実は5千の兵と共に居城である九戸城に籠城し、自身の独立を目指しました。

南部信直からの要請を受けた秀吉は、同年6月総大将に秀次を任命し、九戸政実の城を攻め落とし、奥州をの平定を完全なものにするため、伊達政宗蒲生氏郷、佐竹義宣、上杉景勝徳川家康ら諸将及びその兵10万と共に奥州へ派遣しました。

《合戦の内容》
同年8月、蒲生氏郷の兵6万が、まず九戸城を包囲し、平素は軍目付という役目が多いことから、あまり積極的に合戦に参加できない堀尾吉晴が、ここぞとばかりに勇躍し、氏郷と先陣を争った末、騎馬隊で城方の兵200~300を討ち取るといった働きを見せ、城方を完全に孤立させました。

馬淵川と白鳥川が交わる地点にある九戸城は自然の要害になっており、寄せ手はおおいに攻めあぐねることになってしまい、この城をめぐる戦いは1ヶ月にも及びました。

そしてついに9月4日、城は浅野長政蒲生氏郷の活躍によって落城し、城方の兵5千は皆殺しにされてしまいました。そしてこの戦いの首謀者である政実自身も秀次の陣所へ護送の最中に切り殺されてしまいました。

《合戦の結果》
方々で蜂起していた一揆の騒乱については、伊達政宗らが大崎・葛西一揆を、蒲生氏郷らが和賀・稗貫一揆を、上杉景勝らが出羽の一揆をそれぞれ鎮圧することに成功しました。

遠征軍の攻撃によって傷んだ九戸城は修復され、名前も福岡城に改称されて、この後は南部信直が入ることになりました。

尚、1591年(天正19年)9月、氏郷と政宗の所領分けが確定しましたが、氏郷の密告によって一揆の扇動者として疑われた政宗は本領を没収されましたが、代わりに大崎ならびに葛西旧領を与えられて、居城を米沢から岩手沢城へ移すことになり、所領も半減しました。

このように豊臣軍は10月には奥州の仕置きを終えて、それぞれの領国に戻っていき、これによって秀吉による天下統一が完全に成し遂げられました。