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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

九州平定を目指す羽柴秀吉による島津征討の緒戦「戸次川の戦い」

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大分県大分市
●1586年(天正14年)12月
●羽柴勢(1万4千)VS島津勢(1万8千)

《合戦までの経緯》
大友宗麟は戦国期の始め、キリスト教を保護し、ポルトガルとの貿易によって豊後の国を豊かにしましたが、息子の義統の代になると、薩摩の島津氏による圧迫に苦しむようになり、1586年(天正14年)3月、秀吉に救援を求めるべく父・宗麟を大坂城へ送り出しました。

その秀吉は宗麟が来る以前から九州の状況を注視しており、1585年(天正13年)自ら関白に就任すると、その年の10月に九州全域の諸大名に対して停戦の命令を出していました。

大友氏としては、島津からの侵攻を受けていたため、渡りに船とばかりにこの申し入れをすぐさま受け入れ、今回の大阪行きにつながりました。

この宗麟からの救援要請を受けた秀吉は、九州への兵の派遣を決意し、9月には毛利輝元及び毛利の両川(吉川元春小早川隆景)の部隊を関門海峡から門司に上陸させました。

門司に上陸した毛利氏の軍勢は、高橋元種の居城・香春岳城の支城である小倉城を攻め、大した抵抗も受けずに陥落させ、その知らせを受けた元種も毛利氏に降伏を申し入れた。

毛利氏に対して秀吉は黒田官兵衛を派遣し、そのまま豊前へ侵攻するよう促したため、門司の安全を確保した後、豊前へ向かっていきました。

また秀吉は四国から久秀を軍監として大友義統長宗我部元親・信親親子、十河存保を九州へ送り込み、大友軍と10月に合流させ毛利軍より先に豊前へ乗り込ませました。

一方、島津においては、肥後にて義弘が、日向にて家久がそれぞれ的と交戦中でしたが、島津家当主の義久の命により、義広が肥後口から、家久が日向口から豊後への侵攻していきました。

《合戦の内容》
島津軍と四国からの救援軍の戦闘は栂牟礼城の攻防戦から始まり、11月には府内と臼杵の中間に位置する鶴賀状において激しい攻防が展開されました。

梨尾山に本陣を据えて攻めかかる家久は1万の軍勢を率いており、対する城方である利光鑑教は少数ながらも、12月6日から11日までの間、島津の猛攻に耐えていました。

11日、ついに四国からの援軍が到着し、戸次川を挟んだ城の対岸に陣を張りました。当初、援軍が来るのを待ってから島津軍に攻撃を掛けるという案が大勢を占めていましたが、功を焦る仙石久秀の主張に引っ張られるように渡河戦を行うことになってしまいました。

案の定、数に勝る島津軍の伏兵作戦などによる激しい攻撃を受けた救援軍は、長曾我部信親や十河存保をはじめとして約2千の兵を失うほどの敗北を喫することになりました。

生き残った義統は竜王城へ、久秀は小倉城へ、元親は海路、伊予の日振島へ敗走していきました。

《合戦の結果》
その翌日、家久軍は府内を占領し、その後豊後は島津勢のために席捲されてしまいましたが、丹生島城の宗麟や岡城の志賀親次、栂牟礼城の佐伯惟定がそれぞれ城を守り抜き、のちに秀吉から称賛されています。

このように戸次川の戦いという九州における豊臣と大友の連合軍における最初の戦いは手痛い敗北に終わりました。

ただ徳川家康の臣従によって、後顧の憂いが無くなった秀吉は、翌年には大軍勢を引き連れて島津氏討伐の戦いを進めていき、1587年(天正15年)4月21日、島津義久は秀吉からの使いである木食上人の勧めによって家臣の伊集院忠棟を人質として降伏することになり、ここに秀吉による九州平定がなされました。