【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

奥州制覇を目指す伊達政宗が反伊達連合軍と激突「人取橋の戦い」

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福島県安達郡本宮町
●1585年(天正13年)11月
伊達政宗(5千)VS佐竹義宣ほか(1万5千)

《合戦までの経緯》
奥州の名門である伊達家の当主・輝宗は1584年(天正12年)10月、自らの隠居を決め、後継には18歳の政宗を据えました。

政宗が伊達家を継いだという知らせを聞いた近隣の豪族たちは伊達家の居城であった米沢城に出向き、改めて政宗に臣従を誓いました。

その中にはかつて伊達家に忠誠を誓っていたものの、その後は伊達家と敵対している蘆名氏に寝返った大内定綱も含まれており、この機会に改めて伊達家に従うべく政宗襲封の祝いに訪れたのです。

しかしその定綱の表敬訪問は、代替わりした若き伊達の当主に恥をかかせるべく行った偽りのもので、決して伊達に臣従するつもりは毛頭なく、政宗を弄ぶ行為でした。

このことを知った政宗は怒りに燃え、大内氏を討伐すべく兵を挙げ、1585年(天正13年)7月27日には大内氏の支城である小手森城を落とし、城にいる老若男女すべてをなで斬りにしました。

そんな政宗の断固たる姿勢に恐れを抱いた大内定綱は小浜城を捨て蘆名氏のもとへ逃げたため、政宗は兵を損なうことなく小浜城を入手しました。

小浜城の攻略後、政宗による領土の拡大政策は推し進められ、二本松城の畠山義継も伊達氏から圧迫を受け、それに耐えられなくなった義継は政宗に降伏を申し入れたものの受け入れられず、隠居した先代の輝宗に泣きつき、領土割譲を条件に降伏を認められました。

輝宗の斡旋に対する礼を述べるため、義継は輝宗の住む宮森城を訪れた際に事件は起こりました。義継と輝宗の会談が終わり、輝宗が義継に別れの挨拶をしようとした際に、輝宗が義継によって拉致されてしまったのです。

その報を聞いた政宗は急ぎ、二本松城へ逃げ帰る義継を急追し、ついに高田原で追いつきました。そこで政宗は涙ながらに鉄砲隊に対して射撃を命じ、逃げ切れないと判断した義継は輝宗を刺殺し、自らも命を絶ちました。

政宗は父の弔い合戦として二本松城に攻めかかりましたが、城の守りは予想以上に固く、一旦体制を整えるための撤退を余儀なくされました。

《合戦の内容》
伊達氏の二本松城への攻撃に対し、同じく伊達家と対立する佐竹氏や蘆名氏が中心となって反伊達連合軍が結成され、城の救援ひいては伊達家の殲滅のために二本松城へ向かって進軍を開始し、10月17日阿武隈川西畔の本宮周辺でついに両者は対峙、激戦のあった人取橋を冠したこの戦いは始まりました。

本格的な戦いは、高倉城の周辺で11月17日に始まりました。高倉城を守備していた伊達勢約5百は北上する連合軍を阻止しようと試みましたが、多数の兵に圧倒され城内へ撤退、
さらに連合軍は北上し、本宮城の南方に布陣する伊達軍に対して攻撃を加え、一時は政宗自身が槍を取って戦うほどの苦境にさらされましたが、伊達成実に救われ窮地を脱しました。

伊達軍は、連合軍の猛攻を鬼の左月と呼ばれる茂庭良直の活躍などで何とか食い止め、その日は日没とともに戦いは中断し、決着は翌日に持ち越されました。

しかしながら、連合軍は佐竹氏の本国である常陸近辺において、里見氏や江戸崎氏による不穏な動きのために撤退を決意し、その佐竹氏が反伊達連合の旗頭だったこともあり、他の諸将も同じように引き上げていきました。

《合戦の結果》
この戦いは両者痛み分けという形で終わりましたが、政宗側としては連合軍による二条城救援を阻止しただけでなく、伊達政宗強しというイメージを植え付けることも出来たので、大局的にみれば伊達軍に軍配が上がる戦いでした。