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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

本能寺の変後、北条氏が混乱に乗じ織田勢を駆逐「神流川の戦い」

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●埼玉県児玉郡上里町
●1582年(天正10年)
北条氏直(5万5千)VS滝川一益(1万8千)

《合戦までの経緯》
上野の国は戦国時代において、相模の北条氏と越後の上杉氏、甲斐の武田氏が領土の争奪に乗り出していました。

そんな上野も織田信長武田氏が滅ぼされた1582年(天正10年)に状況が一変し、その年の3月23日、甲斐の平定に功があった伊勢長嶋の城主・滝川一益に対して、信長が
上野の一国及び信濃小県郡、佐久軍を褒美として与え、さらには関東地方の警固にあたる旨の命令を発しました。

上野を与えられた一益は、その名誉に喜び勇んで上野に入国しました。それに対して上野の豪族たちは面白くはないものの、信長の威光には逆らい難く、武田氏が滅びたことによって主家を失ったものや、北条氏や上杉氏を見限り織田に乗り換えた武将を中心に、渋々一益を領主として迎えました。

一方、北条氏武田氏を滅ぼした織田家に対し、その祝いとして米1000俵を送るなど、表向きは友好関係を築いていましたが、一益に対して関東の諸将を服さしめることを希望していた信長に対して、関東のほとんどを自家の領土としていた北条氏がそんなに簡単に従うわけもなく、両者の間には火種がくすぶっていました。

一益はまずは自身の新領土となった上野の国をしっかり治めることに力を注ぎ、さらには北条氏と対立している安房の里見氏や常陸の佐竹氏と連絡を取りつつ、北条氏の勢力を弱め、織田氏の勢力を広げていくよう図っていました。

そんな状況のなか、6月9日に厩橋城の一益のもとへ恐ろしい情報が飛び込んできました。信長が明智光秀の謀反により本能寺にて討たれたというのです。

甲斐では信長から甲斐一国を与えられていた河尻秀隆が武田の旧臣を中心とする土一揆によって討たれ、一益も上野の国で完全に孤立してしまいました。

一益は国内の諸将を厩橋城に集め、信長が亡くなったこと、また自身が北条氏を打ち払ってその弔い合戦のために上洛することを伝え、北条との戦いに備えました。

対する北条氏は6月11日に信長死すとの報を受け取ると、好機とばかりに軍事行動を開始、まずは孤立無援となった滝川軍を関東から追い落とし、旧武田領の上野と信濃、甲斐を手中に収めるべく鉢形城主の北条氏邦隊2千を先発させ、さらに北条氏直は本隊として兵5万を率いて小田原城を出立しました。

《合戦の内容》
6月19日、上野と武蔵の国境にある神流川において、滝川軍1万8千が北上中であった北条軍と激突しました。

炎天下のなか、滝川方における上野の諸将が北条の先鋒を撃破するなど、幸先の良い出だしでしたが、北条氏直率いる本軍が到着すると、兵力に劣る滝川軍は、しだいに劣勢に立たされ、撤退を余儀なくされました。この戦いによって滝川勢は約3千の兵が討ち取られたといわれています。

一益は厩橋城に戻ると、亡くなった兵たちの供養を行い、一緒に戦ってくれた上野の諸将に別れを告げ自身の本拠である伊勢長嶋へ落ちていきました。

《合戦の結果》
滝川勢を駆逐し、この混乱に乗じて領土拡大に乗りだした北条氏でしたが、信長の盟主であった徳川家康は堺から岡崎に逃げ帰ると、支配者不在の甲斐へ侵攻を開始、7月9日には甲府を落とすことに成功しました。

上野から信濃を経て甲斐へ向かった北条勢と徳川勢は8月上旬に若神子周辺で対峙し、小競り合いを繰り返しましたが、10月下旬には和睦し、協議の結果、上野は北条氏お、信濃と甲斐は徳川氏の領土となりました。